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「恩返しが何もできていないので」箱根駅伝で“伝説の17人抜き→40年ぶり予選落ち”の波乱万丈…東海大・村澤明伸(33歳)が今も現役を続けるワケ
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by(L)BUNGEISHUNJU、(R)Takashi Shimizu
posted2025/01/07 11:02
箱根駅伝では伝説ともなった「2区17人抜き」と「40年ぶりの予選落ち」という天国と地獄を味わった村澤明伸。33歳になった元・大エースの現在地とは?
最後の箱根駅伝では同級生の早川翼が関東学連選抜のメンバーに選ばれ、2区を走った早川の給水役を村澤が務めた。そのため走路員として沿道に立つことはなく、わずか50mほどではあったが、箱根路を駆けることができた。つねに良きライバルとして切磋琢磨してきた親友の背中を、村澤はどのような思いで見送ったのだろう。
「早川とは4年間ずっと一緒で、共に強くなってきた思いがあったので、最後にああやって形に残せたのは良かったです。ただ、選手として見たとき、やっぱり自分が走れなかった悔しさもありました。それにチームとして見たときは、先ほど話したようなやりきれなさも感じた。自分の中でも色んな感情があって、だからこそ簡単に整理はつかなかったです」
「仲間に恵まれた」…キャプテンへの向き不向き
主将としての1年間には悔しさも残る。だが、4年間を振り返ったとき、村澤の中に掛け替えのない充実感があるのもまた事実である。
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「高校の時からそうなんですけど、私はほんと仲間に恵まれていて、早川以外の同級生にもすごく助けてもらいました。松谷(公靖)や溝上(翔太)、もちろん早川もそうですし、彼らには仲間や後輩を惹きつける求心力があるんです。キャプテンの向き不向きを考えたら、彼らにやってもらっていたらどうだったんだろうって。キャプテンってそもそもそういう人がなるのかなって、思うところはあります(笑)」
走る才能は傑出していた。ゆえに、監督も村澤には「世界」を意識させた。その思いに応えようと、村澤もできるかぎりの努力をしてきた。反省こそあれ、4年間に後悔がないのは、全力で走ることを究めようとしてきた証しだろう。
村澤は当時、専門誌(『月刊陸上競技』2013年3月号)のインタビュー記事にこんな言葉を残している。
「予選会を欠場するという判断が正しかったかどうかは、今後の自分次第だと思います。僕にとっても、東海大にとっても、今回のことをプラスにしていかないといけません。箱根駅伝で40年続いたタスキは自分たちの代で途切れさせてしまいましたが、後輩たちには過去の先輩方が築いてくれた伝統を大切にしながら、新しい東海大を作ってもらえたらと思います」