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「結論が出たのは、前日の夜でした」箱根駅伝2区で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が振り返る、12年前「走れなかった最後の箱根路」秘話 

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小堀隆司

小堀隆司Takashi Kohori

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2025/01/07 11:01

「結論が出たのは、前日の夜でした」箱根駅伝2区で“伝説の17人抜き”…東海大・村澤明伸が振り返る、12年前「走れなかった最後の箱根路」秘話<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

大学2年時の箱根駅伝では2区で20位→3位と17人のごぼう抜きを見せた東海大の村澤明伸。一方で最後の箱根路は主将を務めながらチームが予選落ちに終わる

村澤の中に残るのは…後悔ではなく「深い反省」

 村澤の欠場が選手に伝えられたのは、レース当日の朝だった。会場の公園内に入ってから主将の欠場が告げられる。他の選手が動揺したのも無理はないだろう。そのことに対して、村澤は今も申し訳ない気持ちがあるという。

「もっと早くに伝えられたら良かったと思いますね。それは後悔ではなく、深い反省としてあります。あの時、どちらかの選択肢があって、もし自分で選んでいたら後悔をしたかもしれない。でも実際は、難しい選択を皆さんに委ねてしまった。だから、私の中では後悔ではなくて反省なんです」

 レースが始まると、村澤は公園内の沿道から選手たちに声援を送った。だが、主力を欠いたチームはどこかちぐはぐで、終盤になっても順位はいっこうに上がってこなかった。

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 そして、手応えを掴めないまま結果発表の時を迎える。日体大がトップ通過を果たし、大東文化大が3年振り、日大が2年振りの本戦復帰を果たす中、東海大の名前は通過9校までに呼ばれなかった。ようやく順位が確定したのは、12位の校名が読み上げられた時だった。

 連続出場の記録は40でストップ。40年という歳月の重みは相当だが、当時の村澤はそれすらも深刻に受け止め切れなかったようだ。

「なんとなく覚えているのは、なんかの間違いじゃないかなって。もう結果も出ているんですけど、現実という風にとらえられなかったです。そこで最後の箱根駅伝が終わったことにも気づいていなくて、それを受け入れるまでに、いや理解するまでにかなりの時間が必要でした」

 結果的に4年生の駅伝シーズンは、出雲駅伝にも全日本大学駅伝にも、村澤は出場することが叶わなかった。もう二度と巻き戻すことのできない時の残酷さを目の当たりにしたのは、翌年、箱根駅伝が終わった直後のことだった。

<次回へつづく>

#3に続く
「恩返しが何もできていないので」箱根駅伝で“伝説の17人抜き→40年ぶり予選落ち”の波乱万丈…東海大・村澤明伸(33歳)が今も現役を続けるワケ

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