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落合博満43歳「野村さんはかわいそう」発言…消えた“落合ヤクルト入団”の真相「ヤクルトは車すら用意しなかった」43歳に6億円破格オファー、日本ハム落合が誕生するまで
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/12/21 11:07
1996年12月9日、日本ハムの入団会見に臨む落合博満。この日は落合の43歳の誕生日だった
「落合は時代のヒーローでありシンボル。リストラで窓際に追いやられるような形で(巨人に)辞表をたたきつけたところは格好良かった。だから、今回も格好良く決着を付けてほしい。条件か、男の意地で決めるのか。世間の人、特に中高年のサラリーマンは注目している」(サンデーモーニング1996年12月8日)
しかし、マスコミを利用する野村監督のやり方は、オレ流相手には裏目に出る。野村監督が「こっちは男気で獲得にいっている」と口にすれば、落合を二人三脚でサポートし続けてきた信子夫人は、「まるで、オレが落合を拾ってやると言っているようなものじゃない」と不快感を露わにした。実は交渉にあたり、両球団の姿勢には条件面以外にも大きな差があった。
「ヤクルトとの交渉の場にはこっちで車を用意して出かけたんだけど、日本ハムの時はフロントの重役の人がわざわざ家まで迎えにきてくれたんだよ。小さなことかもしれないけど、誠意を感じないわけにはいかなかったね。その誠意に応えたいという気持ちになるのは当然でしょ。男気という言葉を使うならば、男気ならば日本ハム、なんだよ」(不敗人生 43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)
日本ハム本社で“お祝い社内放送”
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そして、巨人退団発表から11日目の1996年12月9日、上田監督から落合に43本のバラが手渡される。43歳の誕生日に行なわれた日本ハムとの2度目の交渉で、ついに入団の意志を表明したのである。同日、ヤクルト側に断りを入れた2時間後のことだった。日本ハム球団事務所で「決断したのは7日です」と穏やかな表情で語るオレ流。ヤクルト絶対有利と言われた中で、まさに会社をあげて落合獲得に動いた組織の勝利でもあった。落合入団の速報は、日本ハム本社でお祝いの社内放送が流され、社員からは拍手喝采だったという。営業サイドでは、早くも“オチアイ・ハム”発売が検討され、すでに製作が進んでいた97年度ファンブックの表紙も、田中幸雄と片岡篤史に挟まれ、落合が中心に立つデザインに変更されることが緊急決定する。
迎えた12月12日。金屏風の前で、上田監督、大社義規オーナーに挟まれ、落合は日本ハムのユニフォームに袖を通した。愛息が空き番号リストの中から選んだ背番号は、奇しくも憧れの長嶋茂雄の代名詞でもある「3」だった。「4回目の入団発表の席だが、オーナーと同席は初めて。期待の大きさを感じる」と喜びを語り、落合は大社オーナーに向かって「来年、日本一になりますんで」と堂々と宣言してみせた。
なお、96年シーズンの日本ハムは、前半戦は首位を快走するも、ペナント終盤に息切れして2位で終わり、イチロー擁するオリックスの連覇を許していた。リーグトップのチーム防御率3.49を誇りながら、チーム打率.249はリーグワースト。打線強化が急務であり、百戦錬磨のオレ流の加入は、1981年以来のV奪回への切り札でもあった。
「野村さんはかわいそうよ」
土壇場で、その落合をさらわれたヤクルトの野村監督は、「見事な敗北でございます」と争奪戦の完敗を認めた。結局、巨人に切られたのではなく、自分から巨人を出たと自負していたオレ流に、“リストラの星”や“男気”といった情に訴えた説得は響かなかった。