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ぶら野球BACK NUMBER
「落合博満42歳、巨人退団ヤクルト入り」報道が過熱、野村克也監督「もう落合はヤクルトの一員」発言まで…なぜ“ヤクルト落合”は消えたのか?
posted2024/12/21 11:06
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が3刷重版と売れ行き好調だ。
1996年オフ、43歳になる落合博満は巨人を電撃退団する。「落合ヤクルト入り」スポーツ新聞は一斉に報道した。「巨人軍vs.落合博満」その後の物語。【全2回の前編/後編も公開中】
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「俺、ジャイアンツにいたら、あと1年で終わる」
「ヤクルト・落合博満」の誕生は秒読み段階と思われた。
1996(平成8)年の冬、落合の移籍先は、野村克也監督率いるヤクルトスワローズで決定的と見られていた。このオフ、清原和博(西武)の巨人へのFA移籍にともない、同じ一塁手の落合の去就が注目を集めた。もうすぐ43歳になる大打者はマスコミを介して巨人フロントと激しくやりあったのち、コーチ兼任案も断り、自ら自由契約を選択するのだ。
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1996年11月28日、ホテルニューオータニで長嶋茂雄監督が同席のもと、巨人退団会見に臨んだオレ流は、「清原君との問題で監督の苦労する顔、悩む顔は見たくない」と語り、憧れの長嶋茂雄のもとを去った。この数カ月後、落合は退団騒動時の心境を「俺、ジャイアンツにいたら、あと1年で終わってるもん。それも、隅っこに追いやられてだよ」と語っている。
「もう、途中から見えてたね。清原を獲って、ファーストで使うという時点で。競争も何もないんだな。要するに、教育係みたいなことをやってくれと。それも直接話はなくて、新聞紙上で伝わってくるの。残ってくれという話はひと言もなかったからね(笑)」(週刊文春1997年3月27日号)
巨人3年目、96年シーズンの背番号6は、8月末に死球を受け左手小指骨折で戦線離脱したが、21歳下の松井秀喜から四番の座を奪い返し、打率.301、21本、86打点、OPS.924という堂々たる成績でリーグVに貢献していた。10年来の師弟関係にある清原とも勝負さえさせてくれたら、自分はまだ負けないという自負があったのだ。
野村克也「その後の野球人生は惨めやった」
なお、巨人退団会見の様子を報じる11月29日の「スポーツ報知」一面は、「落合退団ヤクルト入りへ」である。