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落合博満43歳「野村さんはかわいそう」発言…消えた“落合ヤクルト入団”の真相「ヤクルトは車すら用意しなかった」43歳に6億円破格オファー、日本ハム落合が誕生するまで
posted2024/12/21 11:07
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
KYODO
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 当時を徹底検証する書籍「巨人軍vs.落合博満」が3刷重版と売れ行き好調だ。
1996年オフ、43歳になる落合博満は巨人を電撃退団する。「落合ヤクルト入り」スポーツ新聞は一斉に報道した。「巨人軍vs.落合博満」その後の物語。【全2回の後編/前編も公開中】
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「2年6億円オファー」の衝撃
<秒読み段階と思われた「ヤクルト・落合博満」の誕生。1996年12月4日に行なわれた日本ハムと落合との初交渉で一変する。>
なんと、この席上において、日本ハムは「2年総額6億円」という破格の複数年契約を提示するのだ。オーナーから役員まで元・三冠王獲得に向けて意思統一がされ、まさに社をあげての一大プロジェクトといった雰囲気だった。なお、当時の日本ハムのチーム内最高年俸は、投手が金石昭人の1億5000万円、野手は田中幸雄の1億3000万円である。まさに駆け引きなしに、いきなり最大限の誠意を42歳の大打者に提示した恰好になった。
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さらに、上田監督は「巨人への復讐」ではなく、若手選手たちへのお手本となる「生きた教材」として受け入れることを熱く語った。この日本ハム側の熱意に落合も、「清原はここ何年間、パで3割打ってないんだろ。来年オレが3割以上打てば、清原に勝ったことになるさ」(日刊スポーツ1996年12月5日)とセ・リーグ志向だけではないことを示唆した。
「俺が考えていたことは、1回目の交渉で、これ以上でもこれ以下でもないという掛け値なしの条件を出してくれ。そうすれば、俺はすぐに結論を出すよ、ということだったんだよ。俺は『自分からは条件は出さない』とも言ったでしょう。あれは、俺は条件の駆け引きをするつもりがないですよ、という意味だったんだよ」(不敗人生 43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)
「ヤクルトはこっちで車を用意したけど…」
この日本ハムの起死回生の逆転劇に焦ったヤクルト側は、年俸2億円に出来高5000万円という当初の提示を見直すことを明らかにし、野村監督は生出演したTBSテレビ『サンデーモーニング』で、「落合はリストラで困っている人の励み」と情に訴える言葉を並べた。