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松井秀喜“4球団競合ドラフト”のウラ側で…指名漏れした「星稜高のエース」は何者だった? 「『恥ずかしい』が一番」「監督にも挨拶せずに…」

posted2024/10/27 17:22

 
松井秀喜“4球団競合ドラフト”のウラ側で…指名漏れした「星稜高のエース」は何者だった? 「『恥ずかしい』が一番」「監督にも挨拶せずに…」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

4球団競合の抽選の末、巨人が交渉権を獲得し野球部の仲間たちに胴上げされる18歳の松井秀喜。歓喜のウラで同級生エースに起こった悲劇とは

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田口元義

田口元義Genki Taguchi

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 星稜高の松井秀喜に対する甲子園での「5打席連続敬遠」が話題となった1992年。その年のドラフト、実は同校はドラ1候補の松井以外に、エースだった山口哲治もプロ志望を表明していた。松井には4球団が競合した一方で、山口の名は最後まで呼ばれなかった。弱冠18歳で別れた明と暗――では、その後の山口の野球人生はどんなものだったのだろうか。《NumberWebインタビュー全2回の1回目/つづきを読む》

 濃密なる高校3年生の記憶。

 世間からどれだけ過去を美化されようと、本人からすれば必ずしもそのように清算できるものではない。

 1992年。山口哲治は2度の痛恨を味わっている。最初は8月16日だった。

 その日、甲子園球場は揺れていた。

あの「5打席連続敬遠」試合の星稜のエース

 ゴジラと呼ばれる怪物スラッガーが、ネクストバッターズサークルで静かに座している。

 3年夏の甲子園を迎えた時点で通算59本のホームラン。プロのスカウトから熱視線を送られる星稜の4番・松井秀喜は、この試合でバットを振ることを許されていなかった。

 優勝候補と呼ばれていた星稜は、明徳義塾を相手に苦しんでいた。主砲の松井が、第1打席から外角に大きく外れる敬遠気味のフォアボールで勝負を避けられている。1年生の秋からエースとなり、松井と両輪としてチームを支えてきた山口もゲーム序盤で3失点と、ピッチングの流れを掴めずにいた。

「相手は最初から不気味な感じでした。だから、こっちも手探りで投げていたら、あれよ、あれよという間に点を取られてしまって。でも、冷静は冷静やったんですよ。松井が歩かされるのは特別なことではなかったし、最初のほうは普通のフォアボールくらいにしか思っていなくて。でも、それが続いたことによって後ろを打つバッターが固くなってしまったんでしょうね。だんだん追い詰められて」

 2-3と1点を追う9回表もあっという間に2アウトとなり、3番バッターの山口に打席が巡ってきた。あとひとり――この窮地においても、山口は落ち着いていたという。

 バッターボックスに入る直前、学校ではクラスメートで仲の良い松本哲裕が、ファーストコーチャーズボックスから駆け寄ってきた。

「絶対に打てよ!」

【次ページ】 進路は「大学進学」だったはずが…?

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