甲子園の風BACK NUMBER
大社の監督・石飛文太(42歳)とは何者か?「文ちゃんの高校時代なあ…プレーの印象ないな」“あの神バント”安松大希が地元記者に語った「ある言葉」
posted2024/08/19 11:30
text by
井上幸太Kota Inoue
photograph by
Sankei Shimbun
32年ぶりの甲子園出場、63年ぶりの夏勝利、107年ぶりの夏2勝、93年ぶりの夏8強……。勝ち進むごとに登場する数字が、島根代表の大社が古豪であると同時に、長らく全国舞台と縁がなかったことを感じさせる。
第1回の地方大会から皆勤出場を続け、毎年のように島根県内の公式戦で上位に進出しながらも、甲子園から遠ざかっていた。勝ちあぐねていた名門を復活出場、甲子園での躍進に導いたのが、監督の石飛文太(42歳)である。
「プレーの印象はないな…」石飛文太とは何者か?
「松坂世代」の1学年下になる、1981年生まれの42歳。前回、大社が甲子園に出場した1992年当時は、小学5年生だった。小学3年から所属した地元のスポーツ少年団の先輩がレギュラーとして甲子園の土を踏み、「出てるじゃん!」と沸いた。知っている顔が甲子園で安打を放てば、当然興奮する。「大社で甲子園に行く」。その時点で決意が固まった。
初志貫徹で大社に入学し、自身最後の夏は背番号4をつかんだが、選手としての実績が語られることは多くない。長年、大社野球部の戦いを見守ってきた、あるOBが言う。
「文ちゃんの高校時代なあ。元気とガッツはあったな。背番号4だったけど、試合は2けた背番号の後輩が出とったけん、正直プレーの印象はないな」
全国的にはあまりなじみがなく、「いしとぶ」と誤読されることも少なくない「石飛(いしとび)」姓だが、大社のある出雲市ではポピュラーな姓である。前監督も別の石飛だったり、大社OBには複数の石飛がいるため、先輩OBからは「文太」「文ちゃん」などと呼ばれるのが常だ。
在学中に憧れ続けた甲子園に手が届かず。1けた背番号を手にしながらも、選手としてやりきれなかった思いも残った。二つの悔しさから、指導者を志し、進学した姫路独協大で準硬式野球を続けながら、国語の教員免許を取得した。本人も認めるように、決して“エリート”然とした野球人生ではない。