甲子園の風BACK NUMBER
佐々木朗希の“登板回避”で大騒動…大船渡あの32歳監督は今「高校野球監督ではなく…」追い続けた記者に語った真相「当時ムキになっていた」
text by
柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph byYuji Yanagawa
posted2024/08/24 17:20
今年7月、かつて大船渡の野球部監督だった國保陽平氏は球場駐車場にいた
「1年前はすみませんでした。当時はムキになっていたんです。今ではもう誰も取材には来ませんから」
私は1年前の「登板回避」に対する質問をぶつけた。
「(佐々木を)壊しちゃいけないというプレッシャーがあった。世界の野球の歴史を知っている限りで振り返った時に、この若さで、あの高い身長(190センチ)で、滑らかなフォームで、変化球もうまくて、牽制もうまいという才能は、世界の野球の歴史を変えるかもしれない。だからこそ、壊さずに次のステージへつなげなければならないと思っていました。朗希を登板させないことは当日の朝に、歩き方や表情を見て、決めました。高校3年間で一番、ケガのリスクがある状況だ、と」
はじめて語られた「あの日の采配」
あの日の決断はすべて独断で下したと國保は言った。事前にナインに相談するどころか、登板させる考えがないことを佐々木本人にさえ伝えていなかったという。
「事前に本人に相談したら、『投げたいです』と言うのは明らかだった。野手に伝えたら、『僕らが朗希をサポートするので、投げさせてやってください』と言うに決まっています。一言でも彼らに相談したら、(佐々木の登板を)止められなくなると思いました。もし疲労困憊の状況でマウンドに上がったら、力んで投げて、たとえ勝って甲子園に駒を進めたとしても、肩、ヒジ、腰、股関節、膝……これは想像でしかありませんが、将来に残るようなケガのリスクは高かったんじゃないかなと思います」
あの日の采配について國保が口を開いたのは初めてだった。私はその夏以降も國保を追い続け、22年に佐々木が完全試合を達成した翌日には岩手の沿岸部に向かい、盛岡第一に転勤となった昨年には、夏の岩手大会で実現した大船渡との試合を一緒に観戦した。この春も、そして夏も、節目のタイミングで國保のもとには通っていた。
しかし、國保は、一筋縄ではいかない男なのだ。
〈つづく〉