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「『田中希実』を演じるな」…24歳“日本最強女子ランナー”にコーチの父がかけた言葉の意味は? 東京五輪後は「緊張感に支配されていた」
text by
田中健智Kenji Tanaka
photograph byJMPA
posted2024/08/02 06:00
東京オリンピックでは1500mで日本人初となる入賞を果たした田中希実。前人未到の偉業は、一方でその後のプレッシャーにも繋がっていった
試合前の練習は好調だった。だが、そんな彼女の不安定な様子を見て、私は「今回はまずくなりそうだ」と薄々予感していた。案の定、彼女は中盤までトップを走っていたものの、残り400mで失速。そして、ラスト200mで後藤に交わされ、自己ベストには程遠い4分20秒11の2位に終わった。
あの時の会場の異様な雰囲気は今でも思い出される。
スタンドで計測していた私の周りには、彼女の走りを楽しみに待つ子どもたちや親御さん、陸上ファンの姿もあった。会場に集まった皆さんは「田中希実はラスト1周でものすごいスパートをかけるだろう」との期待を胸に見守っていたはずだ。ところが、希実はまったくと言っていいほどラストの動きがはまらず、何もできないまま後藤に突き放されていった。
「田中希実らしくない」
会場内にはそんな空気が漂っているのを肌で感じるほどだった。本人は、私以上にその雰囲気を感じ取っていたはずだ。古巣を飛び出したという不安に加えて、周りが期待するラストを体現しなければ、というプレッシャーが重くのしかかっていたのだろう。
求められる「田中希実像」を演じてしまう?
その頃から、本人によくかけている言葉がある。
「『田中希実』を演じるな」
当時の彼女は、複数の日本記録を持っているがゆえのプレッシャー、動画配信サイトなどで「ラストスパートがすごい」と注目されることによる緊張感に支配されていた。結局、自分がレースで何を表現したいかより、周りが求める「田中希実像」を知らず知らずのうちに演じてしまう。そんな閉塞感が、心の不安定さにもつながっていたのだろう。特にプロ転向後の前半シーズンはその傾向が顕著だった。
コーチとして、この窮屈な状況を打破しなければならない。そう思い、取り組んだのが、新たなチームスタッフを配置したり、他チームの選手とトレーニングする機会を設けたり、「新たな風」を取り入れることだった。