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プロ野球PRESSBACK NUMBER
〈球宴出場〉大ブレークの“愛され捕手”日本ハム・田宮裕涼が涙した日「たとえ二塁に届かなくても…」あえて直さなかった「ゆあビーム」の原点
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph byJIJI PRESS
posted2024/07/23 11:03
今季大ブレークした日本ハムの田宮裕涼
田宮が涙を流した日
「田宮はずっとプロに行きたいと言っていました。そのためには自分に対してもっと厳しさを持たなければいけない。今の能力でプロに行けると思ったら大間違いだよ、と僕は思っていたので。キャプテンにすることで、自分が率先してやらなければ、という風になるだろうし、大人しい彼が前に出ていくことで積極性も出るかなと思ったんです。だから田宮にはよく『お前のチームだぞ』と声をかけていました」
主将になった田宮は以前にも増して練習に打ち込んだ。しかし、新チームは秋季大会で千葉黎明に、春季大会で木更津総合に惜敗するなどなかなか結果を残せない。尾島監督は、悔しさに涙を流す田宮の姿を見ていた。
「もっと上に行けるだけの実力はあっただけに、自分がチームをまとめられなかったという不甲斐ない思いとジレンマがあったんだと思います。でもそうやって一番上手い選手が熱い気持ちを出したことで、チーム全体もやらなきゃという雰囲気になりました。背中を見せる、じゃないですけれど、練習の量も質も彼が率先して一番高いものをやっていました」
「プロは無理だぞ、諦めろ」
3年春の大会に敗れた後、尾島監督は田宮に高卒でのプロ入りを諦め、大学に進んでさらに鍛えるように進言している。実際に当時の田宮はまだ体が小さくスタミナ不足で、いきなりプロに進んでも苦戦するように見えた。それは2000年に監督に就任し、成田高を春夏3度の甲子園出場に導いた指揮官の親心でもあった。
「正直な話、指名されることはあっても3位まではない。それより下なら、どこまで面倒を見てもらえるのか、という不安があったんです。それならば大学で4年間鍛えてもらった方がいい。これまで色々な選手を見てきましたけど、体が出来上がるのには個人差がある。中学で出来ちゃっている奴もいれば、大学や社会人になって出来上がる奴もいる。高校時代の田宮はまだ出来ていない状態。無理にプロに進んで3年しか見てもらえずクビになったら悔いが残る。だから正直に話さなきゃいけないと思っていました」
17歳が貫いた意地
あえて突き放し、こんな言葉をかけた。
「こんなバッティングして、こんな守備じゃドラフトにかからない。プロは無理だぞお前、諦めろ」
ところが、田宮は頑なにかぶりを振った。温和で従順な性格だった17歳の、決然とした意思表明だった。
「自分のことはあんまり言わない子でしたけれど、あの時は自己主張しましたね。『嫌です。どうしても行きたいです』と絶対に譲らなかった」
尾島監督はしょうがなく条件を出した。
指揮官の「交換条件」とは
「それなら夏に結果を出さないと。その結果次第でスカウトの評価を聞いて、プロ志望届を出すか決めよう。だけどよっぽど頑張らないと、今のままじゃ無理だからな」
その言葉に火がついた田宮は、そこから“大逆転劇”を起こすことになる。
〈後編に続く〉