甲子園の風BACK NUMBER
甲子園優勝の名門…なぜ勝てなくなった? 現地で見た“まさかのコールド負け”松山商業「愛媛では強いが…」「エースが“1日2試合”登板」揺れる今
posted2024/07/07 06:00
text by
元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph by
Ichiro Sugino
大正、昭和、平成で全国優勝を飾った高校野球の名門、松山商業(愛媛)が近年、甲子園から遠ざかっている。最後の出場は2001年夏、23年前まで遡らなければならない。
かつて高校野球の強豪といえば、カリスマ監督の指導力と猛練習によって勝ち上がっていったものだ。松山商業も例外ではなかった。
奇跡のバックホームも…“終わらなかった”猛練習
1969年夏の決勝戦では、三沢(青森)との延長再試合の激戦を制し、1996年夏の決勝では熊本工業(熊本)を“奇跡のバックホーム”で下し、日本一になっている。四半世紀以上経った今でも語り継がれる名勝負をモノにすることができたのは、現代では許されないような猛練習があったからだ。
「相手に1点を取らせない野球」で勝ち上がった松山商業のベースにあるのは投手を中心とした守りの野球。1996年夏の甲子園を制した澤田勝彦元監督はこう振り返る。
「松山商業は伝統的に守備力で勝ち上がっていきました。徹底して守備を鍛え、1点を守る野球です。だから当然、守備練習に割く時間が多かったですね。とにかくノックを打ちました。本数も時間も決まっていません。まあ言うたら、エンドレスですね」
10分なら10分、100本なら100本と決まっていれば選手は精神的に楽だ。しかし、いつ終わるかわからない守備練習によってメンタルが鍛えられる。誰かひとりが気の抜けたプレーをすれば、時間は伸びる。途中で給水タイムが設けられるはずもない。いつ終わるかわからないノックの嵐が守備力を向上させた。
澤田が続ける。
「練習の最後にシートノックをやって、全員がノーエラーで締めるというのが恒例でした。ライトからの送球がキャッチャーのミットにおさまったら練習が終わりという場面で、失敗を繰り返したのがあの矢野ですよ」
熊本工業との決勝戦で世紀の大返球、“奇跡のバックホーム”を見せた矢野勝嗣だった。彼の豪快な悪送球が、疲労困憊の選手たちを何度も絶望させた。