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「尚弥、頼むからジムに来ないでくれ…」井上尚弥に感じた“本当の恐ろしさ”…スパーリングで戦った八重樫東が証言「次の動きが読まれていく」《井上尚弥BEST》
posted2024/05/07 11:01
text by
森合正範Masanori Moriai
photograph by
Yuki Suenaga
◆◆◆
<「怪物」井上尚弥とスパーリングで、数え切れないほど拳を交わしてきた八重樫東。同じジム所属、同じ時期の世界チャンピオン、そして現在はトレーナーとして。八重樫が痛感した「なぜ井上尚弥は最強なのか」。>
2020年、夏。八重樫東は現役生活を締めくくるスパーリングの相手に、ジムの後輩・井上尚弥を指名した。
「えっ、俺でいいんですか?」
「うん、お願いします」
井上尚弥と「最後のスパーリング」
大橋ジムのリング上は二人だけの世界。これが現役最後の闘いだ。八重樫は井上が中学3年のとき、初めて拳を交わした。その次は高校2年になったとき。八重樫はもう日本王者になっていた。高校3年時にも向かい合った。その後、井上がプロになり、スーパーフライ級に上げるまで、何度も何度もスパーリングを重ねてきた。現役最後は井上尚弥と決めていた。
「尚弥がいなかったら、3階級制覇もできなかったと思うし、今の自分はないかなという気がしますね。僕のことを強くしてくれた人なんで、感謝しています」
八重樫はそう言って、はにかんだ。
10歳年下の「怪物」と出会い、幾度も拳を交わし、いつしか追い抜かれ、それでもなんとか食らいついていった。
疲れ切っているとき「尚弥、もう頼むからきょうはジムに来ないでくれ」と何度思ったことか。だが、井上がジムに姿を現わすと、心とは裏腹に「おう、スパーやろうか」と八重樫の口は動いていた。
だが、今思う。あの日々がなければ、井上がいなければ、ここまでこられたのだろうか、と。
「どうしても尚弥と一緒にいると、比べられるじゃないですか。同じジムで、同じ時期の世界チャンピオンなんで。『俺は尚弥になれない』と思ったんです。よくゴレンジャーに例えるんですけど、アカレンジャーは尚弥。じゃあ俺はミドレンジャーでいいやと思って。それでもゴレンジャーの一員ですから。どんな色でもいいから自分の色を出せる選手になろうと思ったんです」
これほどファンに愛されたボクサーがいたか?
最後のスパーリングを終えると、互いに「ありがとうございました」と頭を下げた。八重樫の現役生活は終わりを告げた。最後まで強者に向かっていき、長くて濃いボクシング人生だった。もう悔いはなかった。