令和の野球探訪BACK NUMBER
実績は「独立リーグNo.1」でも「調査書は1球団も来なかった」“独立リーグ→台湾プロ野球”へ直行…異色のキャリアの26歳が海外から狙う下剋上
text by
高木遊Yu Takagi
photograph byYu Takagi
posted2024/04/16 11:00
埼玉武蔵ヒートベアースから台湾プロ野球の台鋼ホークスへ移籍した小野寺賢人。独立リーグではタイトル獲得など結果を残したが、NPBから声はかからず
そんな中で白羽の矢が立った小野寺だが、学生時代の実績は皆無に近く、NPBにも縁は無かった。宮城・聖和学園高時代は2番手投手で甲子園出場は無く、北海道・星槎道都大時代もエースにはなれなかった。
「大学時代は“野球で就職したい”というくらいで、それが“プロに行く”と取り組んでいた河村さん(説人/現ロッテ)との差になりました」と後悔する。4年時に調子を落としたこともあり企業チームのセレクションにも次々と落ち、北海道のクラブチームであるトランシスで、フルタイムで働きながら硬式野球を続けることになった。
だが野球に打ち込む環境を求め、数カ月で退社しルートインBCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズへ。仕事の大変さも感じた後だっただけに、薄給でも「野球で勝負できて、お金がもらえることに喜びを感じました」と前向きに取り組み、人との出会いにも恵まれた。
特に影響を与えたのは、宮城県出身として仙台育英高での活躍時から憧れていた(佐藤)由規の存在だ。投手コーチも兼任していた由規からの助言は一つひとつに重みがあり、投手としての高みを目指し続けている姿勢にも心を動かされた。
独立リーグでは2つのタイトル獲得&リーグ優勝
そうした歯車が噛み合い、ルートインBCリーグで好成績を残せるようになる。2年目には防御率1.65の成績を残し13試合で与四死球がわずか5。無四球完投も2度記録するなど高い制球力が光った。3年目となった昨年は、地区最多勝利と地区最多奪三振のタイトルを獲得し、リーグの優勝決定戦では胴上げ投手になった。
それでもドラフト会議での獲得の可能性を示す調査書は、2年目に1球団、3年目にいたっては1球団からも来なかった。
「周りからは“お前が行けないのはおかしい”と言ってもらうこともありましたが、身長やスピードなど足りないものがあったと思うので」と小野寺は冷静に現実を捉える。
NPBのスカウトは当然、今よりも未来を見る。