ぶら野球BACK NUMBER
「巨人から5000万円ももらってません」“空白の1日”江川事件…あの日、小林繁に何が起きたのか?「羽田空港からハイヤーで連れ去られて…」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/03/16 17:02
1979年、江川事件で巨人から阪神へ電撃移籍した小林繁(当時26歳)。あの日、小林に何があったのか?
小林は相談相手の知人も同席させていたが、納得のいく説明もなく、「もし君が今日のうちに納得してくれなかったら、事態は収拾のつかないことになる」なんて泣き落としをかけてくる、お偉いさんたちが次第に哀れに思えてきた。小林は前述の『男はいつも淋しいヒーロー』の中で、その時の心境をこう振り返る。
「オレには最後の切り札『野球をやめます』の一枚が残っている。相手には、これを防げるカードも、時間も残されていない。どこからどう見ても、オレの勝ちだ」
「巨人から5000万円ももらってません」
午後11時を過ぎても巨人球団事務所へのファンからの抗議の電話は鳴り続け、女子職員たちは帰宅できず、200人以上の報道陣がその場に詰めかけ、騒然としていた。
もうこんな馬鹿げた騒ぎは、オレが終わらせてやる――。小林が「結論から申し上げますと、阪神にお世話になることになりました」と記者会見を開いたのは、日付が変わった79年2月1日午前0時18分のことだった。
「僕に対する世間の感情っていうのは、可哀想とか、そういうふうに取られるとは思うんですけども、あくまでもプロ野球の選手ですので、向こうに行ってからの仕事で判断していただきたい。同情は買いたくないってことですね」
無数のフラッシュの光の中で、そう毅然と口にする26歳の小林は、ある意味大人だった。入団時にドラフト1位と同等の契約金を要求し、契約更改では毎年のように球団と激しくやり合い、「ボクは1円でも上がるまで諦めませんよ。ボクが野球をやめるか、常務が職を辞するかのどちらかです」と迫ったこともある。
トレードの際に巨人側と交渉をした補償金は5000万円超えという報道もあった。なお、現役引退直後の「週刊ポスト」1983年11月25日号で、小林は補償金について聞かれ、笑いながら認めている。
「巨人からは、言われてるように五千万円ももらっていませんが、ちょっともらいましたよ(笑)」
◆◆◆
《こうして“悲劇のヒーロー”は阪神へ移籍した。そこから小林の逆転人生が始まるのだ。》
<続く>