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「イトウのスピードは素晴らしい」名FWカレッカが日本代表ベタボメ! “降格回避”古巣レイソルには愛の喝「育成はJの中で優秀だから…」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byMasashi Hara/Getty Images,Takao Yamada
posted2023/12/03 17:01
レイソル時代のカレッカ(右)。同じく柏から世界に飛び立った伊東純也らを高く評価している
「私は1986年ワールドカップ(W杯)でモレリアを履き、ナポリへ移籍してからもモレリアひと筋。そんな私を見てナポリのチームメイトも同じモデルを試すようになり、ディエゴも非常に気に入った。彼はプーマと契約していたが、練習ではメーカー名とモデル名を隠して、密かにモレリアを履いていたことがあった。ただ、プーマとの契約の関係上、試合では使えなかったようだけどね(笑)」
――当時の柏の練習施設をどう思いましたか?
「チーム専用のピッチがなく、一つのグラウンドを他のスポーツチームと共有していた。ユニフォームは自分で洗うことになっており、ホペイロ(用具係)がいないから、シューズは自分で手入れをしなければならなかった。アマチュアチームそのままだった。これでは困るから、チーム関係者にブラジル人ホペイロを紹介し、雇用してもらった」
自分の力でJFLからJに引き上げよう
――柏のチーム力については?
「もちろん、ナポリとは大きな差があった。でも、MFシモダイラ(下平隆宏)、右SBサワダ(沢田謙太郎)ら向上心に溢れた若手はいた。チーム力の差以上に大きなショックを受けたのは、ナポリではいつも8万人以上の観衆で埋まったスタジアムでプレーしていたのに、レイソルの試合の観客は数百人程度だったこと。これは寂しかった」
――当時、柏はJリーグ準会員。1993年後半に行なわれたJリーグカップでベスト4に入ればJリーグに加盟できることになっていましたが、その目標を達成できませんでした。
「自分としてはベストを尽くしたが(注:6試合で4得点)、残念な結果に終わった。レイソルの社長からは、『あなたほどの経歴を持つ選手を日本の2部でプレーさせるのは申し訳ない。1年間、ブラジルのクラブでプレーしますか』と聞かれた。しかし、ゼ・セルジオらとも相談し、『自分の手でレイソルをJリーグへ引き上げよう』と考えて、JFLでプレーした」
――1994年、柏はJFLで2位となり、翌年のJリーグ昇格を決めた。1995年、初めてJリーグでプレーしたわけですが、当時のレベルをどう思いましたか?
「各チームに優秀な外国人選手が在籍しており、日本人選手も伸び盛りで意欲に満ちていた。レベルは、JFLよりずっと上だった」
カレッカ加入後、全員のプロ意識が高まった
――そのような状況で、サンパウロFCとセレソン(1986年と1990年のW杯)であなたと一緒にプレーしたFWミューレルが柏に入団します。黄金コンビ再結成とあって大いに期待されたのですが、彼はわずか2カ月で退団。一体、何があったのでしょうか?