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阪神監督とケンカで“まさかの降格”名物スコアラーが告白「試合後ミーティングで…」“電撃就任”の野村克也に訴えた「勝たせてください」
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byJIJI PRESS
posted2023/11/28 11:00
1998年オフ、「暗黒期」阪神の監督に就任した野村克也
「これだけ良いもんがあって、なんで勝てんのじゃ」
野村の微笑みに安堵した三宅は返答した。
「監督、そこから先は私が言うことじゃないでしょう」
『野村ノート』から膨大なヒントを得た96年以降も、阪神は低迷を続けていた。三宅は心の叫びを吐き出した。
「勝たせてください。ワシらもいつまでも5位や6位で仕事するのうんざりしとるんですわ。優勝してください」
野村が驚いた「阪神のデータ」
野村は「そうやのお」とニコッと笑った。倉敷工業で3度甲子園に出場した三宅は60年、大阪タイガースに入団。将来を嘱望されたが、右ヒザ靭帯断裂で選手生命を絶たれ、65年に引退。鉄鋼商社の営業マンとして働いたのち、80年に二軍コーチとして阪神に復帰。82年からスコアラーを務めた。 知将を唸らせたデータは、『野村ノート』だけが理由ではない。
「スコアラーになった年、広島や南海でもコーチをしていた横溝桂さんに細かい配球分析を頼まれた。『初球は何を投げるのか』『真っ直ぐでストライクになったら2球目は何を投げるか』など傾向を徹底的にチェックした。球種は、パッと一目でわかるように色分けした。野村さんも『わかりやすいな』と喜んでくれとった。『こんなデータがあって、なんで狙い球絞らんのじゃ』って言うてた」
阪神には野村克也を感心させるほどのデータが80年代から存在していた。三宅は選手別に配球の傾向を作っていた。
「首脳陣はデータをほとんど活用していなかった」
「ヤクルトや西武でコーチをしていた佐藤孝夫さん(84年一軍打撃担当)はよく活かしてくれた。選手だと、ロッテから来た弘田澄男はよう見てたな。バースは相手の配球をいつも研究して、傾向を全部頭に入れていたな。いい選手は記憶力が優れている。『ミヤケ、一緒にビデオ見てくれ』とよく頼まれた。ピッチャーの癖を見つけるのも上手かった」
バースが三冠王を獲得した85年、阪神は日本一に輝く。三宅スコアラーのデータは大きく貢献していた。それでも、87年から12年間で最下位7回と大低迷。その要因は複数存在するが、スコアラーの視点からはこう見えた。