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「羽生さん、あなた名人だろう! いい加減、投げるべきだ」羽生善治を追い詰めるも、まさかの大逆転負け…森下卓が明かす「信じられないミス」の真相 

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鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph byKYODO

posted2023/10/17 06:00

「羽生さん、あなた名人だろう! いい加減、投げるべきだ」羽生善治を追い詰めるも、まさかの大逆転負け…森下卓が明かす「信じられないミス」の真相<Number Web> photograph by KYODO

1990年代、将棋界を席巻した羽生善治。七冠を目指す羽生に挑んだ棋士が当時を振り返る

《羽生さん、あなた名人だろう! もういい加減、投げるべきだ》

 森下の苛立ちは極まっていた。目は羽虫に奪われ、心は電話をかけたいという衝動にとらわれ、意識が盤上から離れていた。

 そしてついに局面は、あとわずかで詰みというところまできた。

 この時、対局を解説していた会場では「もうこれ以上は意味がない」と解説が打ち切られていた。ホテルのロビーには終局間近の報を受けたカメラマンたちが集まり始めていた。羽生が敗れるのだ。

 ただこの時、隔絶された茶寮で、羽生と向き合っていた森下は意識が盤上になかった。思考の空白のようなものに陥っていた。

 

なんて馬鹿なことをしたんだと自分に呆れ果てました

 108手目。森下は羽生の玉将から遠く、自陣に桂を打った。それはダウン寸前の相手をロープに追いつめながら、みすみすバックステップを踏むような一手であった。

 解説場がザワザワとした。この手は一体、何なんだ……。そして羽生の眼鏡の奥が光った。猶予を得た六冠王は、次の一手で自陣の綻びを塞ぐと、攻勢に転じた。

 急速に盤上の景色が変わっていくのを目の当たりにした森下は、やがて自分が犯した重大な過ちに気づいた。

《しばらくして、なんて馬鹿なことをしたんだと自分に呆れ果てました。100%盤上に意識があれば、虫のことも気にならなかった。電話のことも考えなかった。ただ、もう勝ちだ、早く投了しろよという気持ちで頭がこんがらがって、集中を欠いていたとしか考えられません……》

 自分自身でも説明がつかなかった。

後先のことは考えず、全身全霊をかけて戦えた1局

 魔の一手からわずか10分後、森下は羽生に頭を下げていた。「負けました――」

【次ページ】 羽生さんは見抜いていた

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