プロ野球PRESSBACK NUMBER
落合博満以来のホームラン王へ…ロッテ・ポランコ「ノーパワーだった」原点からの才能開花と“愛されキャラ”を支えるレジェンド左腕の金言
text by
梶原紀章(千葉ロッテ広報)Noriaki Kajiwara
photograph byChiba Lotte Marines
posted2023/09/05 11:02
「パワー」全開のホームランを量産するロッテ・ポランコ
野球は尊敬する父の影響で始めた。とはいってもポランコが物心ついていた頃には、父は野球ではなくソフトボールの選手として活躍していた。
「ドミニカは野球だけではなくソフトボールも盛んなんだ。父はソフトボール独特のアンダースローの投げ方で、すごくキレのある速いボールを投げるピッチャーだった」
「2人ともノーパワー」ペルドモとの出会い
今でも自宅には、父がアマチュアの大会で活躍して手に入れた沢山のトロフィー、メダルが誇らしく飾られている。「数えられないくらい。25個以上はある」とポランコはまるで自分の事を話すように胸を張る。
ソフトボールの投手として活躍した父の影響もあり16歳ぐらいまでは投手をつとめたポランコだったが、メジャーチームのトライアウトを目標にするようになったころから野手に専念。プレーしていたドミニカの野球チームでは、のちにマリーンズでチームメートになるルイス・ペルドモ投手と出会う。ちなみに当時はお互い野手だった。
「2人ともノーパワーだったよ。自分もノーパワー。決してパワーに自信がある人間ではなかった」とポランコは試合前のロッカールームで当時の事を振り返ると、隣のロッカーのペルドモも「うん、うん。そうだった」とニヤニヤしながら相槌を打ってみせた。
トライアウトを受け続けたが、なかなかメジャーチームから誘われなかった。有望な選手は16歳で次々とプロ契約を結んでいく。ポランコは17歳の時、ついにパイレーツのトライアウトに合格し、契約。その後、海を渡り、アメリカのフロリダでのルーキーリーグに参加をした。異国での下積み時代は挫折の連続だった。何度も何度も心が折れそうになった。
「特に食事が辛かった。ドミニカとアメリカでは食事が全然違う。どちらかというと日本の方が味付けも含めてボクらには合うかな。言葉も通じないし、文化、考え方も違う。最初は本当にキツイ時間だった」