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大学野球PRESSBACK NUMBER
乗客から「容赦ない罵声」も…“元プロ野球選手の車掌さん”近田怜王はなぜ京都大学野球部の指導者に?「もうプロに戻るのは無理やな、と」
posted2023/08/11 17:01
text by
菊地高弘Takahiro Kikuchi
photograph by
JIJI PRESS
高校時代に関西屈指のサウスポーと謳われドラフト3位でソフトバンクに入団するも、一軍での登板機会がないままプロ野球の世界を去った近田怜王。現役引退後、JR西日本の「鉄道マン」になった男は、なぜ秀才が集まる京都大学野球部で指導者としての道を歩むことになったのか。近田の奮闘と京大野球部の変革を描いた菊地高弘氏の著書『野球ヲタ、投手コーチになる。 元プロ監督と元生物部学生コーチの京大野球部革命』(KADOKAWA)より、一部を抜粋して紹介します。(全2回の1回目/「謎のガリ勉アナリスト」編へ)
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自分はプロでは通用しない
1990年4月30日、近田は兵庫県三田市で三兄弟の三男として生まれた。「怜王」の名前には「人の上に立つ人間になってほしい」という願いが込められている。また、「怜」の字は母・怜子の漢字から取られた。
怜子は鹿児島県の南側に位置する離島の種子島で生まれ育っている。学生時代はソフトボールをプレーし、息子たちには「ピッチャーもやっていて、すごかったのよ」と自慢げに語った。怜子は野球にのめり込む怜王を献身的にサポートし、平日も練習に付き合ってくれた。
そのかいあってか、怜王は速球派サウスポーとして地域の有名人になった。中学時代に所属した三田リトルシニアでは、シニア日本代表に選ばれ世界大会に出場。高校進学時には60校あまりの強豪校から誘いを受け、名門・報徳学園に進学している。
高校1年時から「スーパー1年生」としてメディアにも取り上げられ、高校在学中に甲子園には3回も出場した。2008年のプロ野球ドラフト会議では、福岡ソフトバンクホークスから3位で指名され、プロ入りを果たす。絵に描いたようなエリートコースである。
だが、近田がプロで輝くことはなかった。高校時代に投球障害であるイップスを発症した影響もあり、近田自身「一番いい時の感覚が戻りきったことはない」と考えている。そして仮にイップスがなかったとしても、「自分の性格では通用しなかった」と近田は振り返る。