格闘技PRESSBACK NUMBER
「18歳で両親を亡くした」全女・元人気レスラーの“壮絶な半生”…「JBエンジェルス」で活躍した山崎五紀59歳が“アメリカで交際0日婚”した話
posted2025/12/30 11:07
立野記代との「JBエンジェルス」でも活躍した元全女プロレスラー・山崎五紀さんのインタビュー(第2回)
text by

伊藤雅奈子Kanako Ito
photograph by
東京スポーツ新聞社/Shiro Miyake
山崎五紀は、全日本女子プロレス興業(以下、全女)でデビューした3年後の1984年に、実父と実母を亡くした。
そのころに、クラッシュ・ギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)やダンプ松本を筆頭とした極悪同盟によって、社会現象と呼ばれる女子プロブームが起こり、スター候補生だった同期の立野記代とJBエンジェルスを結成。
2度目の引退後には、渡米先で出会った日本料理の経営者である日本人男性と、“交際0日婚”をした。
ADVERTISEMENT
波乱に満ちたジェットコースター人生を振り返ってもらった。
◆◆◆
母の逝去は、新潟での試合の日だった
山崎 お母さんは、すい臓がんでした。「余命は3カ月ぐらい」「いまだったらまだ会話ができるから帰ってこい」って言われて、島に帰ったんですよ。けど、本人には(病名が)知らされていなかったから、あんまり長くはいられなくて。それまでは年に1回、帰るか帰らないかだったのに、そのときだけ長くいると怪しまれちゃうから、何日かしかいられなかった。“その日”は、新潟の山のほうで試合があったんですね。メインだったんですよ、クラッシュと。前半戦でセコンドについてたら、「(松永高司)社長が呼んでます」って言われて、そのときに、「あっ、逝っちゃったんだな……」って思いました。
――虫の知らせというか。
山崎 ちょうど、私も記代もメインに入れてもらえる回数が増えはじめた時期で、社長からは、「いま帰っていい」「メインで試合をやったら、もう電車はない」って言われたんですけど、「いいです。やってから帰ります」と。試合に出て、次の日の朝イチで帰りました。
――カードを繰り上げてもらうことはせずに?
山崎 そうですね。そのとき、控室にミミ(萩原)さんとジャガー(横田)さんがいたんだけど、私がミミさんに先に、「お母さんが死んじゃったんです」って言ったんですね。それをジャガーさんは、「あんたは先にミミのところに言いに行った」って、いまだに根に持ってる(笑)。ミミさんはね、次の日の朝早くに旅館を出るときも見送ってくれて。私が、上着のようなものを着てなかったのかな、「これ着ていきな」って、はおるものを貸してくれました。
「両親とも59歳。いまの私の年齢です」
――素敵な先輩ですね。
山崎 姫路に帰ったときは波が高くて、定期船が出てなかったんですよ。お母さんが(収容先の病院から家島に)帰ってきたときも、すごい高波だったらしく、「棺桶を押さえてた」って言ってたほどで。そこから私が帰るころには、さらに天候が悪くなってて、全便欠航になった。でも、いちばん上のお兄ちゃんが、「それじゃ、かわいそうだ。波が高くてもいいから、頼むから船を出してくれ」ってお願いしてくれて、帰れたんですね。
――お母さまは、おいくつでしたか。
山崎 両親とも、59歳です。若いでしょ? いまの私の年齢ですよ!
――ほんとだ。
山崎 だから、私はがんばって59までは生きなきゃって、ずっと思ってましたよね。来年1月で、60になりますけど。

