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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
杉下茂はジャイアント馬場19歳と投げ合っていた!「戦争で僕の乗った後の船は…」「大学でフォークを1球しか」90歳時に聞いた野球人生
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byJIJI PRESS
posted2023/06/21 11:00
2017年、森繁和監督時代の中日キャンプを視察する杉下茂氏
「夏目漱石も学んだ錦華小学校を出て一ツ橋高等小学校に進んだのですが、帝京商業にスカウトされて転校したんです。でも、一ツ橋高等小側は〈帝京で要る生徒ならうちでも要るんだ〉と帝京側にねじこんだんです。両校の話し合いによって、僕は帝京商業を一時期休学して、一ツ橋高等小の生徒として都の大会に出て優勝し、改めて退学届を出して帝京商業に復学したんです」
今からすればおかしな話だが、さすがに当時でも問題視された。
「休学中に、帝京商業でユニフォームを着て球拾いをしていた。それがいけないと言うんですね。結局、帝京は甲子園につながる都大会に出られなくなった。〈お前がいたから〉という声もあって、不登校になるほど悩みました」
恩師と出会ったものの戦争の影が
このとき、杉下に救いの手を差し伸べたのが、帝京商業野球部監督だった天知だった。
「天知さんは英語の先生で、1年生のときから知っていた。そして野球も教えてもらったんです。天知先生は〈杉下のせいじゃないんだ〉と野球部や周囲を説得してくれた」
これが生涯の出会いとなる。しかし弱り目に祟り目で、杉下は2年の時に結核にかかり、約半年間療養を余儀なくされた。
「もう運動はできないと思っていました。天知さんは〈スギは体が利かないんだから遊ばせとけ〉と言った。だからしばらく無理をしなかった。で、翌年に復帰して都の大会で圧倒的な強さで優勝した。でもそのときは戦争が始まっていて甲子園大会は行われませんでした」
さらに4年生の時は文部省主催の全国大会に出場するチャンスがあったが、後輩投手が都の決勝戦で最終回に崩れて逆転負け。杉下は一度も甲子園に出場することができなかった。
戦争の空気が、杉下の野球人生に大きな影を落としていたのだ。
「僕が乗った船のあとはみんな潜水艦に…」
杉下は1943年末に繰り上げで帝京商業を卒業、ヂーゼル自動車(のちのいすゞ自動車)に進んだが、徴兵年限の引き下げにより、44年12月に入営。部隊は中支(中国大陸中部)に派遣され、ここで終戦を迎えた。