- #1
- #2
酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
杉下茂はジャイアント馬場19歳と投げ合っていた!「戦争で僕の乗った後の船は…」「大学でフォークを1球しか」90歳時に聞いた野球人生
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byJIJI PRESS
posted2023/06/21 11:00
2017年、森繁和監督時代の中日キャンプを視察する杉下茂氏
「中支へは博多から船で渡りましたが、僕が乗った船のあとはみんな潜水艦に撃沈されています。昭和21(1946)年の1月に上陸用舟艇で佐世保に引き上げてきた。翌年、東京、神田の家に帰ってみると、うちの一角だけが焼け残っていた。でも家の中には何もありませんでした。そこからですね、本当の苦労をしたのは」
杉下はいすゞ自動車(ヂーゼル自動車)に復帰した。
「いすゞは戦前の職業野球の大和軍の選手を集めていた。そのうちに苅田久徳さん(1910-2001、伝説の名内野手 大和軍監督、野球殿堂入り)も帰ってきたから野球部を作ろうということになった。当時、なぜかいすゞには投手がいなくて、背が高いので僕が投手をやれということになった。初めての試合が川崎のコロムビア戦でした。コロムビアの監督は明治大学出の吉相金次郎さんでしたが、主審に大学の先輩の天知さんを引っ張ってきたんです」
お前、野球やれるような体になったのか!
天知とは3年ぶりの再会だった。恩師は帝京商業時代、結核の病み上がりで青白くやせ細っていた杉下が、日に焼けてたくましくなっていたのに驚いたという。
「天知さんに〈僕、今日ピッチャーやります〉と言ったら〈お前、野球やれるような体になったのか!〉と言われました。軍隊で太って達者になっていた。90kgくらいあったと思います」
その試合で杉下は完封した。大投手・杉下茂のスタートだ。
杉下は復員直後から、プロ野球界に注目される人材だった。
「コロムビアとの試合の前から、帝京商業で同級生だった藤原鉄之助(1924-2002,当時中日。のち急映、巨人、広島でプレーした名捕手)と西沢道夫さん(1921-1977、中日草創期からのエース、のち主軸打者。野球殿堂入り)が後楽園に行く前に〈中日に入れ〉って神田のうちの家に寄るんです。何回も来ました」
杉下は大学や企業に入って野球をやればいいと考えていた。母も職業野球には反対だった。
「当時は東京六大学の方がレベルは上でしたね。小学校時代に野球を始めてから、神宮の舞台に立つのが夢でした。だから当時の中日の監督だった竹内愛一さん(1903-1972)に〈僕は大学で野球をやります。藤原が来てうるさいから寄越さないでください〉と断りに行ったんです」
投手に転向、そしてフォークボールを会得
再び、紆余曲折を経て杉下は明治大学へ。投手がエースの小川善治(1924-1987 のち大映投手)1人しかいなかったので、投手に指名された。当初はアンダースローだったが、のちにオーバースローに転向。打撃も良かったので投げない試合では一塁を守った。2年時にマネージャー出身の宮坂達雄が監督に就任し、明治大学OBの天知俊一を技術顧問に招聘した。ここでまた、杉下と天知は再会した。