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「あのクライフがアーセナル史上“最も美しい”天才を怒らせた日」日本のファンにも愛されたベルカンプの伝説「じつは進学校に通う秀才だった」 

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中田徹

中田徹Toru Nakata

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photograph byGetty Images

posted2023/05/04 17:06

「あのクライフがアーセナル史上“最も美しい”天才を怒らせた日」日本のファンにも愛されたベルカンプの伝説「じつは進学校に通う秀才だった」<Number Web> photograph by Getty Images

1993年までアヤックスでプレー、インテルを挟んで、1995年~2006年の現役引退までアーセナルで活躍。3度のプレミアリーグ優勝に貢献したデニス・ベルカンプ

 ベルカンプをマークしたトルビョルン・ペルソンは27歳の働き盛りだった。そんなスウェーデン代表の左SBをベルカンプはスピードとテクニックで翻弄した。ペルソンがベンチのロイ・ホジソン監督(現クリスタルパレス)を見やると、ファンや記者たちは「ペルソンが交代を懇願するメッセージ」と理解した。ペルソンはピッチに残ったものの、マルメは3人、4人がかりでベルカンプを止めにかかった。

 得点にこそ絡まなかったが、89分間プレーしてチームの3-1の勝利に貢献したワンダーボーイの出現にオランダが沸いた。この後、アヤックスは決勝でロコモティヴェ・ライプツィヒを下して初優勝を遂げている。

じつは進学校に通った秀才だった

 ベルカンプは日本で言うところの進学校の高校に通っていた。だが、アヤックスと学業の両立は困難を極めた。やがて中退し、授業の都合がつきやすいフィジオセラピスト養成学校に進んだ。プロとして大成しなかったときのことも考え、手に職を付けておきたかった。

「私は学校に通いながらアヤックスでプレーしました。そのことが格別なストーリーとなったのです。今の時代なら別に普通のことですが」(ベルカンプ/2017年5月6日、ヘット・パロール紙)

「デニスは成績が良かったので大学に進学することもできました。しかし、アヤックス、そしてクライフはデニスのことを必要としていた」(学校関係者/2008年10月10日、ヘット・パロール紙)

 プロ2年目にベルカンプはアヤックスの主力選手になったが、87年いっぱいでクライフがチームを去ると、試合に出られない時期が訪れ、批判を受けることもあった。そんな彼が得点力に開眼したのが90-91シーズン。このシーズンを含めベルカンプは3季連続でオランダリーグ得点王に輝き、91年、92年には年間最優秀選手に選ばれている。では、ベルカンプが本当の意味でのブレークを果たしたのはいつだろうか?

「ベルカンプはステップ・バイ・ステップで成長していった選手。ゴールを1試合で固め取りするタイプでもなかったので、『この試合』というブレークの瞬間はありません。アヤックスがUEFAカップを獲得した91-92シーズンは彼が大ブレークした『年』だと言えるでしょう」(シモン・ズワルトクライス記者)

ファンハールが「デニス・ベルカンプ」と叫んだ日

 このシーズンはルイ・ファンハールがアヤックスで初めて指揮を執る年だった。レオ・ベーンハッカー監督が突如、レアル・マドリーへ去ってしまったため、第4節からコーチのファンハールが監督に昇格したのだ。

【次ページ】 ファンハールが「デニス・ベルカンプ」と叫んだ日

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