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福永祐一はなぜ騎手人生の晩年に全盛期を迎えたのか?「キングヘイローにようやく恩返しが…」異例のキャリアを歩んだ46歳と名馬たちの絆
posted2023/02/25 11:03
text by
島田明宏Akihiro Shimada
photograph by
Keiji Ishikawa
「騎手・福永祐一」に転機が訪れたのは、30歳になった2006年だった。
デビューからずっと所属していた北橋修二厩舎が解散したのだ。翌07年には、彼を主戦として起用していたもうひとつの大厩舎、瀬戸口勉厩舎が解散した。
それもあって、福永は勝つことばかりを目指すのをやめ、馬乗りの基礎からやり直し、騎乗技術を高めていこうと考えるようになった。調教での騎乗は、馬術の技術の高いスタッフの多い藤原英昭厩舎で行うことが多くなった。
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すると、最初の数年は勝ち鞍が減りがちだったが、やがて上昇に転じ、100勝超えが当たり前になっていく。
他のどの騎手とも違う「特殊な成長曲線」
2010年にはキャリア2度目の年間100勝オーバーの109勝を挙げ、翌11年には133勝をマークして、デビュー16年目にして初めてJRAリーディングとなった。同時に、史上初の親子によるリーディングを達成した。勝つことを最優先にしなくなったら勝ち鞍が増えたのだ。
障害馬術日本代表アドバイザーの小野雄次氏を専属コーチとし、騎乗フォームの改良に取り組むようになったのは10年からだった。
12年もリーディングを狙える勢いだったが、宝塚記念終了後、2カ月間、アメリカに遠征した。
もともと海外志向が強かったわけではなく、アメリカ競馬に憧れていたわけでもなかった。行き先はヨーロッパでもよかったのだが、たまたま声をかけてきたのがアメリカの関係者だったという。
アメリカで騎乗しながら、手綱を握る位置や、道中の馬の抱え方や、疲れて首が使えなくなった馬を引いてから押す追い方を習得するなど、技術面にさらに磨きをかけた。
普通は、上手くなってからたくさん勝つようになるか、たくさん勝っているうちに上手くなるものだが、福永は違った。
「ぼくは『あとで上手くなろう』と思ってやってきたので、今が一番技術的に伸びている時期かもしれません」
デビュー17年目、2012年の秋にそう話していたのだから、ほかのどの騎手とも違う、特殊な成長曲線を描いてきたことがわかる。