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82歳で死去ペレは「9歳で号泣の父とW杯優勝」を約束した…「ゴールより美しいノーゴール」伝説、悲しみのブラジル報道「キングは永遠」
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2022/12/31 11:07
ブラジル現地紙はペレ死去について、多くのページを割いて悼んだ
GS最初のチェコスロバキア戦の前半42分、センターサークルでボールを受けたペレがいきなり超ロングシュート。相手GKが懸命に背走したが、追いつかない。しかし、ボールは無情にも右ポストをわずかに外れた。
その後、多くの選手がこのプレーを真似、ゴールを決めた選手もいる。しかし、世界で初めて、しかもW杯の大舞台で咄嗟にやってのけたのである。
さらに、この大会の準決勝ウルグアイ戦の後半46分、左後方からのスルーパスに合わせて猛然と走り込む。飛び出してきたGKがペレに抱きついてファウルで止めようとしているのを察すると、わざとボールに触らないで体の後方へ通し、GKの手を逃れて反転。振り向きざまにシュートを放った。左ポストを際どく外れたのだが、これまた常人には絶対に思いつかない天才ならではのプレーだった。
また、決勝のイタリア戦の後半41分、ゴール前でパスを受け、相手守備陣の注意をひきつけておいてから、ノールックでさりげなく右前方へパス。これを猛然と走り込んできた右サイドバックのカルロス・アルベルトが蹴り込んだ。
まるで頭の後ろに目が付いているような、驚嘆すべきプレーだった。
「戦争を止めた」伝説、釜本の引退試合にも
ペレは、アフリカで「戦争を止めた」ことでも知られる。
1969年1月下旬、サントスは招待を受けてコンゴへ遠征した。当時、コンゴ共和国とコンゴ民主共和国が戦闘状態にあったが、前者で2試合、後者で1試合を行なうことになり、その間、両国は休戦することで協定を結んだ。
またコンゴでの試合後、サントスはナイジェリアへ向かったが――当時、この国も内戦状態にあった。しかし、サントスが首都ラゴスで試合を行なう前後の2日間は停戦することで双方が合意した。
ペレは、日本へもやってきた。
1972年にサントスの一員として来日し、日本代表と対戦した。また、1975年から1977年までニューヨーク・コスモスに在籍し、1977年に日本で引退試合を行なった。1984年には元日本代表FW釜本邦茂の引退試合に駆けつけ、試合後、釜本を肩車した姿が印象的だった。
12月30日、ブラジルの新聞は揃って1面にペレの写真を掲げ、20ページ前後の特集を組んで彼の偉業を称えた。
日刊紙『オ・エスタード・デ・サンパウロ』は、「エジソン・アランテス・ド・ナシメントは亡くなった。しかし、フットボールの永遠のキングであるペレは不滅だ」と伝えた。
これからブラジルは、世界は、そしてフットボールは、ペレに代わる革命児を生み出すことができるのだろうか。
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。