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82歳で死去ペレは「9歳で号泣の父とW杯優勝」を約束した…「ゴールより美しいノーゴール」伝説、悲しみのブラジル報道「キングは永遠」

posted2022/12/31 11:07

 
82歳で死去ペレは「9歳で号泣の父とW杯優勝」を約束した…「ゴールより美しいノーゴール」伝説、悲しみのブラジル報道「キングは永遠」<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

ブラジル現地紙はペレ死去について、多くのページを割いて悼んだ

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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Hiroaki Sawada

 12月29日午後3時27分(日本時間では30日午前3時27分)、“フットボールの王様”が亡くなった。82歳。11月29日から、がん治療のためサンパウロ市内の病院に入院しており、重篤が伝えられていた。

 病院と家族が逝去を発表すると、ブラジルのすべての地上波のテレビが通常の番組を中断。深夜まで追悼番組を組み、彼が成し遂げた数々の偉業を振り返った。

通算1281得点、W杯を3回制覇した唯一の選手

 エジソン・アランテス・ド・ナシメント。通称「ペレ」。彼は世界のフットボール史上において最も偉大な選手であり、フットボールの歴史を塗り替えただけでなく、フットボールの概念すら変えた革命児だった。

 決して大柄ではないが、驚異的な身体能力と完璧なテクニックを備え、誰も思いつかない奇想天外にして美しいプレーを平然とやってのけ、ゴールを量産した。1363試合に出場して1281得点をあげたとされ、現在に至るまでワールドカップ(W杯)を3回制覇した唯一の選手である。

 父はブラジル南部の中小クラブを渡り歩いた長身CFで、サンパウロ州の小都市バウルーで育った。父親からフットボールの手ほどきを受け、歩けるようになるとすぐに家の前の土の道路で近所の子供たちとボールを蹴った。

 当時、活躍していたビレという名前のGKのファンで、ミニゲームでGKを務めてシュートを止めると、「ビレ、ビレ」と叫んで喜んでいた。それを聞き間違えた子が、彼のことを「ペレ」と呼んだ。当初、本人は嫌がったが、だからこそ、このニックネームが定着した。

9歳の少年ペレが号泣した父親に誓ったこと

 1950年、ブラジルが第4回W杯の開催国となる。セレソンは最終戦でウルグアイと対戦し、引き分けでも初優勝という有利な状況で、なおかつ先制しながら、痛恨の逆転負けを喫した。「マラカナンの悲劇」である。この敗戦をラジオで聞いて父親が号泣するのを見て、9歳の少年ペレは「お父さん、泣かないで。僕が大きくなったらW杯で優勝するから」と言って慰めた。

 当時、バウルーには多くの日系人が住んでおり、初恋の相手は近所に住む日系の少女だった。13歳のとき、地元のバウルーACのU-17に入団。自分よりずっと年上で大柄な少年に混じって練習を積んだ。

 1956年、15歳でサントスのU-20に入団。すぐにトップチームへ昇格し、たちまちレギュラー。16歳でブラジル代表に初招集された。そして、17歳で1958年のW杯に出場し、伝説を作る。

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