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マリノスが未来を託した左足「中村俊輔の出現はOBとして頼もしかった」水沼貴史が語る和司さん以来の衝撃と“バナナ”持参のイタリア出張
posted2022/11/11 17:00
text by
水沼貴史Takashi Mizunuma
photograph by
Kazuaki Nishiyama
今シーズン限りで中村俊輔が引退を発表しました。プロ生活26年。まずは長い間、日本サッカーに貢献してくれて「ありがとう」と伝えたいですね。引退会見での「やり切った」という言葉の通り、晴れ晴れとした表情がとても印象的でした。
今年の1月、高校サッカー選手権の会場で見かけた時に「今年の調子はどう? 自分らしく楽しんでやればいいんだよ」と声をかけました。「(今年も)精一杯やります」と笑顔で返してくれましたが、ここ数年は足首の怪我との闘いが続いて、今季もなかなか出場機会に恵まれなかった。将来のことについて考える時間は多かったのかもしれません。サッカーが本当に大好きな人だから、「引退」を決断するまで悩んだでしょうね。
一方で、家族はホッとしたのだろうなとも思います。苦しんでいる姿を近くで見てきたでしょう。重圧から解放される部分もあると思うので、まずは家族との時間を有意義に過ごしてほしいですね。なんせ俊輔は“イクメン”ですから(笑)。
「なんとキックが上手い子なんだろう」
俊輔のプレーを初めて見たのは桐光学園時代の選手権。体の線は細かったですが、当時から見えている世界が違っていた。そして、なんとキックがうまい子なんだろう、と衝撃を受けました。
1997年にマリノスに入団するわけですが、すぐにチームの中心になると思っていました。確かプロ3年目ぐらいでもう10番をつけていますよね(1999年に背番号25から10に変更)。多くの期待を背負っていたし、当時はフリューゲルスとの合併などもあってクラブの転換期でもあった。それでもプレッシャーに潰されずにスター選手になっていくわけです。ユースに昇格できなかった悔しさと、自分の力でマリノスを強くしたいという思いが強かったからこそ、あれだけのプレーができたと思います。
シドニー五輪があった2000年はリーグMVPでしたか(当時22歳)。サポーターにとっても未来を託せる存在だったと思いますが、OBとしても俊輔のような若い選手の出現は頼もしかったですね。
日韓W杯ではメンバー落選という憂き目にあいましたが、そういった挫折が俊輔をさらに逞しくしました。海外移籍の後押しになったし、その後は代表でもすごいメンバーとポジションを争っていたことも大きかったと思いますね。ヒデ(中田英寿)にシンジ(小野伸二)、小笠原(満男)にヤット(遠藤保仁)……「選手」というのは“時代”に恵まれることも、重要な要素です。