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アントニオ猪木が野次に「つまみ出せ、コノヤロー!」若き日の高田延彦と武藤敬司が見た、“プロレスラー猪木が闘い続けたもの”の正体

posted2022/10/09 11:01

 
アントニオ猪木が野次に「つまみ出せ、コノヤロー!」若き日の高田延彦と武藤敬司が見た、“プロレスラー猪木が闘い続けたもの”の正体<Number Web> photograph by Yuki Morishima

1995年、10・9東京ドームのメインとして行われた武藤敬司vs高田延彦

text by

堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph by

Yuki Morishima

平成プロレス最大の一戦といえば、1995年10月9日東京ドーム『激突!! 新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争』のメインイベントで行われた武藤敬司vs.高田延彦だ。二人が振り返る“27年前のあの一戦”と、忘れがたいアントニオ猪木の姿――。これまで有料公開されていた記事を、特別に無料公開します。《全2回の2回目/前編からつづく》(初出:『Number』1055号、肩書などはすべて当時)

――お二人は共に1962年生まれですけど、新日本プロレス入門は高田さんが'80年、武藤さんが'84年と4年違うんですよね。

武藤 えっ、4年も?

高田 こっちは17歳で入ってるからね。だから武藤ちゃんが入ってきた時は、意外と接点ありそうでなかったんだよね。

武藤 俺が入ってすぐ、高田さんは(第1次)UWFに行かれて、その後、長州(力)さんたちも抜けて。先輩たちがごっそりいなくなったから、俺ら(闘魂)三銃士はのびのびと新人生活を送れたんですよ(笑)。

猪木が許せなかった野次「つまみ出せ、コノヤロー!」

――それに対して高田さんの時代は昭和新日のフルメンバーがいたので、道場の雰囲気も4年という歳月以上に違ったんでしょうね。いわゆる猪木イズム、新日イズムがより色濃かった時代で。

高田 当時はプロレスが世間の偏見に晒される機会って今よりずっと多くてね。地方会場ではプロレスを馬鹿にした野次を飛ばすお客がよくいたの。そうすると猪木さんが先頭に立って怒り出すんだよ。俺たち若手に「つまみ出せ、コノヤロー!」って怒鳴って。だからチケットを買って入ってきてるお客さんを何十人つまみ出したかわからない。それくらい猪木さんはそういう野次に敏感だったし、俺自身プロレスをそういうふうに言われるのがすごく嫌だった。そこは猪木さんと同じ想いを共有していたのかもしれない。

武藤 世間の目と戦ってたんですね。昔の新日本は、客入れした後もリング上で第1試合開始ギリギリまでスパーリングやってましたよね。

高田 スパーリングで若手がボロボロになっているところをお客さんにあえて見せて「これだけ厳しい練習をやってるんだ」と示していたんだと思う。「プロレスラーはなめられちゃいけない」っていう言葉は、(山本)小鉄さんや藤原(喜明)さん、佐山(聡)さんといった猪木さんに近い人たちが常々言っていたし、それを練習態度で若手やファンにも伝えていたよね。

武藤 高田さんがUWFに行ったのは、そういう教えがあったからなんですね。

高田 そうだね。憧れのダイナマイト・キッドとジュニアのタイトルマッチが決まっていたから未練もあったし、猪木さんを裏切ることになる後ろめたさもあった。だけど、強くなるためのスパーリングで自分を痛めつけてくれた先輩方がごそっといなくなったら、「俺は明日から何の練習をすればいいんだ?」と思うはず。だったら付いていくしかなかった。

【次ページ】 武藤と高田が見た“アントニオ猪木”「千両役者というのかな」

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