ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
新日本プロレス&スターダムの合同興行が話題だが…32年前、“日本初の男女ミックスドマッチ”を導いた男「こんな試合やめちまえ!」
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/09/02 17:00
L)日本に男女混合団体を定着させた大仁田厚、R)日本初のミックスドマッチにも出場した工藤めぐみ
大仁田厚は80年代前半、全日本プロレスでNWAインターナショナルジュニアヘビー級王者となり、当時人気絶頂だった新日本の(初代)タイガーマスクの対抗馬として期待されていた。しかし83年4月に左膝蓋骨粉砕骨折の重傷を負い長期欠場。一度は復帰するもかつてのような動きは戻らず、85年1月に27歳の若さで引退した。その後、大仁田は通算7度にわたり引退と復帰を繰り返すことになるが、この時が最初の引退だった。
引退後、大仁田はタレントに転身。日本テレビ『11PM』などに出演するが長続きはしなかった。店を経営するもうまくいかず、職を転々とし、電電公社(現NTT)の代理店を立ち上げ成功したこともあったが、それも一時的なもので最終的には多額の借金を抱える結果となった。
そんな大仁田に対し、1986年に旗揚げしたジャパン女子プロレスからコーチの要請が舞い込む。プロレスにまだ未練があった大仁田はこれを快諾。コーチ兼営業部員として働き始めると、これが意外にも復帰への足掛かりとなった。
当時、経営難に陥っていたジャパン女子は、元・新日本の営業本部長で猪木の右腕だった新間寿に協力を要請。新間は興行のテコ入れとして、女子プロレスの大会に男子の試合や、当時自身が懇意にしていた空手団体士道館の空手の試合を組み込むことを決める。
「こんな試合やめちまえ!」大仁田に浴びせられた罵声
そして1988年12月3日、ジャパン女子の後楽園ホール大会で、同団体のコーチだった大仁田とレフェリーを務めていたグラン浜田の試合が決定。ひょんなことから大仁田は4年ぶりの復帰戦を行うことになったのだ。
しかし、これはジャパン女子のレスラーと観客両方から強い拒絶反応を呼んだ。当時、ジャパン女子の観客は、女子中高生ファン中心の全日本女子プロレス(全女)とは違い大人の男性ファンが多かったが、女子のリングで男の試合が組まれることをよしとせず、「こんな試合やめちまえ!」「帰れ!」と、試合中、終始罵声が飛んだ。
そしてジャパン女子のレスラーたちがリングに上がり、「私たちは男子と一緒に試合をするためにジャパン女子に入ったわけではありません!」と涙のマイクアピールをすると、大きな拍手が起きた。こうしてジャパン女子の興行に男子の試合を組む計画は、レスラーとファン両方の反発もありこの1試合で頓挫。女子のリングで男のプロレスを行うことは、まったく受け入れられなかったのである。