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“松井秀喜がいた甲子園”を全試合完投で優勝…30年前、あの“鉄腕”はなぜプロ野球に進まなかったのか?
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2022/08/12 06:00
いまから30年前、1992年夏の甲子園は全5試合で完投した「鉄腕」のひとり舞台だった(写真はイメージです)
「もちろん、できすぎと思われるのはわかるし、そうかもしれないですけど、自分でそう思ったことは1回もないですね。『これだけやったから結果が出たんだ』って」
激闘を制し甲子園…「先輩たちを超える」
西日本短大附に入学時点から、森尾は「甲子園にさえ出られれば勝てる」と信じてきた。
1年生の90年夏はメンバー外だったが、チームは甲子園ベスト4まで勝ち進み、自分たちの世代は「強い」と期待されていたこともあった。「先輩たちを超える」。この目標はすなわち、日本一を指していた。
だが、甲子園までの道が遠かった。
まず、怪我が多かった。1年生から年に1回は肩の不調を訴えたし、両足スネの疲労骨折や左足首の靱帯を損傷と、森尾も「満身創痍ですね」と苦笑するほどである。
だから怪我をするたびに、できることを地道に続けた。肩を痛めて満足に投げられないのであれば、ダッシュやランニングメニューを増やす。下半身に不安を抱えていれば、ウエートや体幹トレーニングで体の芯を鍛えた。
夏を投げ切るため。苦難をも受け入れられたのは、そこに尽きると森尾は言っていた。
「福岡県の場合、多ければ予選で8試合戦わないといけなくて。甲子園に出れば5、6試合あるわけで、もちろん全部投げ切るつもりでしたから。そのために、怪我をしても日ごろの練習がきつくても、『夏のために体力と精神面を鍛えていかないといけない』と、積み重ねていった感じでしたね」
3年生の夏を振り返る時、森尾は福岡大会準々決勝からの3連投が「今まで経験したなかで一番きつかった」と明かす。
準々決勝の八幡西戦で延長14回を1-0。準決勝では、前年に西日本短大附の甲子園を阻み代表校となった柳川を3-0で退けた。そして、福岡工大附(現・福岡工大城東)との決勝戦でも投げ切った。この試合で9回に1点を許すまで、森尾は51イニング連続無失点。別次元のパフォーマンスで、ようやく自身初の甲子園を勝ち取ったのである。
森尾にとって好都合だったのは、全国的にはそれほど注目を浴びていないことだった。