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大阪桐蔭の西谷監督は「苦労して、努力した生徒」“異端の名将”日大三島・永田監督はこうして生まれた「今も高校時代の悪夢にうなされる」 

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菊地高弘

菊地高弘Takahiro Kikuchi

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/08/07 17:00

大阪桐蔭の西谷監督は「苦労して、努力した生徒」“異端の名将”日大三島・永田監督はこうして生まれた「今も高校時代の悪夢にうなされる」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

永田裕治監督(報徳学園時代)。1994年~2017年まで報徳学園監督。2002年センバツ優勝。2020年日大三島の監督に就任。今大会33年ぶり夏の甲子園出場の日大三島は初戦敗退に終わった

「それはやはり『逆転の報徳』だと思います。僕は『粘りをもって戦う野球』だと解釈しています。最後にゲームセットのコールがかかるまで、勝負はわかりません。人生も同じじゃないですか。その最後の粘りは今も受け継がれている部分でしょう」

 奇しくも「粘り強く」というフレーズは、西谷が口癖のように吐く言葉でもある。

 1974年の春、親に連れられ出向いた甲子園の外野スタンドで初めて報徳学園を見た時から、永田は「ここで野球をしたい」と憧れを抱いた。だが、実際にはロマンと現実の狭間で揺れ、栄冠を手にしても「思い出したくない」と振り返る苦い記憶が残った。

 それでも、永田は運命に抗い続けた。監督として、教師として、多くのOBから慕われ、人々の記憶に残る存在になった。永田を衝き動かしたのは、粘り強く戦う「逆転の報徳」の血筋だったのかもしれない。

<日大三高編から続く>

永田裕治(ながたゆうじ)

1963年10月16日、兵庫県生まれ。報徳学園時代は3年時に夏の甲子園で全国制覇を経験。中京大を卒業後、90年から母校のコーチを務め、94年に監督に。2017年春に退任後、U-18日本代表の監督を務め、20年に日大三島の野球部監督に就任した。同校は今夏、33年ぶりに夏の甲子園に出場を果たした

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