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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「プロ入り直後にヒジ手術」「ストレスから1年半で27キロ減」「22歳で自ら自由契約」“山陰のジャイアン”29歳の壮絶野球人生
posted2022/06/20 17:01
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kou Hiroo
4月、岡山県倉敷市で学童野球のリーグ戦「山陽フロンティアリーグ」が開幕した。その開幕セレモニーで、小学生選手が注目する中、横浜DeNAベイスターズのユニフォームで剛球を投げ込んだ元選手がいた。ソフトバンク、DeNAでプレーした白根尚貴だ。
彼は今、リーグ戦に参加した広島県福山市の学童チーム「福山ウエスト」の総監督を務めている。
29歳にして起伏に富んだ野球人生
まだ29歳ながら、島根県松江市出身の白根尚貴の野球人生は「これでもか」と言うくらい起伏に富んでいる。
「中学校までは軟式野球でした。地元の開星高校に入って春の大会からベンチに入れてもらって、1年生の秋からエースナンバーを背負わせてもらいました。そこから全部先発で投げました。野々村直通監督は"経験を積みなさい"とおっしゃいましたが、すごくうれしかったですね。1年先輩に今、阪神の糸原健斗さんがおられて1番を打っていました。
打撃の方でも入学当初は硬球に慣れなくて――手は痛いし飛ばないし、悩んでいたんですが、1年生の終わり頃からコツをつかんだのか、打球が飛ぶようになりました」
2年の春夏と甲子園に出場し、夏の大会ではホームランを打っている。「自分でもびっくりしましたが、3年生のときも甲子園に出て、この頃はどちらかと言えば打者の方で注目されていたと思います」。こう回想する白根は、高校野球ファンの間で"山陰のジャイアン"というニックネームで知られるようになった。
「中国大会で優勝して、神宮大会に出場した1年の秋くらいから(山陰のジャイアンと)ちらほら言われ始めた感じです。態度がでかかったんじゃないでしょうか(笑)。意識してるわけじゃないんですが、仕草がふてぶてしいねって、ネットで出始めたのだと思います。
2年生の春、選抜に出る前あたりからプロのスカウトの方がちらほら見に来られていたようです。監督やコーチのところに来ておられたのですが、僕は全然気がつきませんでした」
高2の頃からヒジに“自覚症状”を持っていた
開星時代の野々村直通監督は「精神論」が中心の指導だったという。
「とにかく“勝ちにこだわりなさい”と言われました。点差が10対0になろうが15対0だろうが、最後まで投げました。3年生になってからはコールドの試合では他の投手に任せることもありましたが、ほぼ1人でした。スカウトの方は投手としても評価していただいていたようですが、なにせ当時は太っていたので“あんな体で大丈夫?”という評判もあったようです」