- #1
- #2
野球クロスロードBACK NUMBER
憧れの大阪桐蔭に入学後、背筋が凍った“森友哉の打球”…3年間ベンチ外→現ドラフト候補・宮本佳汰(24)が明かす“高校時代の葛藤”
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byGenki Taguchi
posted2022/06/02 11:00
憧れの大阪桐蔭に入学するも、3年間ベンチ外だった宮本佳汰24歳。いかにして“ドラフト候補”にまで成長したのか
腰椎を疲労骨折してしまった影響で、すべり症と分離症を患うようになり、3年には外野ノック中に上腕骨を骨折と、満足にプレーできた期間のほうが短いくらいだった。
「でもやっぱり、縁なのかなって思います」
宮本が呟く。ボーイズの監督に「大阪桐蔭に行きたいです」と意思を明確にしたことで、1学年20人という狭き門に滑り込むことができた。西谷にピッチングを見てもらった1年生の秋の縁が、繋がったのである。
森友哉の衝撃…「こういう人がプロに行くんだ」
この時点でのストレートの最速は「133キロくらいだった」と、宮本は言う。それが高校野球屈指の名門のレベルでは物足りないことは、13年の入学時点で認識してはいた。3年生のバッティングピッチャーを務めると、その物差しすら身の程知らずではないかと思うほど衝撃を受けた。
正捕手として前年に春夏連覇を経験した、森友哉(現西武)の打球に背筋が凍る。「こういう人がプロに行くんだ」。のちにプロ入りする2年生の香月一也(現巨人)のバッティングもそうだったし、福田光輝(現ロッテ)と青柳昴樹がAチームの練習メニューに加わっていても、闘志に火がつくことはなかった。
宮本は初めて全国トップレベルを目の当たりにしたのである。
「もともと実力がないことはわかっていましたし、自信がなくなってしまったっていうわけではないんですけど、『ここでやっていけるのかな?』って不安は大きくなりました」
ケガの再発。駆られる焦燥感
さらに、その愁嘆を増幅させたのは、中学から悩まされ続けた故障の再発だった。
宮本の伯母には、東京五輪で銅メダルを獲得したスポーツクライマー・野口啓代らを担当するコンディショニングトレーナー、有吉与志恵がおり、高校入学前から腰のケアのアドバイスをもらっていた。それでも定期的に腰が悲鳴を上げてしまっていた理由。
それは、焦燥感だ。
24歳となった今ならば、宮本はあの頃の心情を解放させられる。