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“4月で80歳”グレート小鹿はなぜ社会貢献に情熱を注ぎ、今もリングに立ち続けるのか「結局、オレもプロレスバカなんだね」 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/02/13 11:02

“4月で80歳”グレート小鹿はなぜ社会貢献に情熱を注ぎ、今もリングに立ち続けるのか「結局、オレもプロレスバカなんだね」<Number Web> photograph by Essei Hara

1995年3月、横浜文化体育館での大日本プロレス旗揚げ戦でマイクを持つグレート小鹿

「新潟プロレスに参戦して、新潟市で10本の木を植えたんです。1回きりだったらそれで終わりですけど、3年続けたら30本ですよ。時間が経ってその木が大きくなったとき、おじいちゃんやおばあちゃんが『体の大きいプロレスの人とこの木を植えたんだよ』と孫に言える。地道かもしれないけど、素晴らしいことじゃないですか」

 植樹などの社会貢献活動を続けるためにも、小鹿はまだまだリングに立ち続ける覚悟がある。

「欲張っているわけではない。でも、体が動く限りはやりたいと思う。オレがリングから降りたら、募金活動もできなくなるでしょう。リングからマイク持って呼びかけたら、『ご苦労さん』って募金箱に入れてもらえる。1円玉でも10円玉でも募金してもらったお金ですから、そのお金は軽いものじゃない。ここ2、3年ですよ、ウンって言ってくれるようになったのは。7年前はみんな頷いてくれなかった。地道でも何かに希望を持って、一生懸命やったら、みんな話を聞いてくれるものなんです」

「腕や足の一本は折られるだろうと」新日本との対抗戦

「力道山先生が日本に持ってきたプロレス文化を大事にしていくのがオレの仕事」だと語る小鹿だが、プロレスに臨む姿勢はいつも自然体で、ユーモアにあふれている。

 1997年1月4日、大日本プロレスが新日本プロレスの東京ドーム大会に乗り込んで、小鹿とマサ斎藤の一騎打ちが組まれたことがある。

「ほとんどリングに上がってなかったでしょう。社長業やって、営業やって、ちゃんと練習なんかしていないんだから。誰が考えたんだか、アホでしょう(笑)。でも思ったんですよ。ここで引っ込んだら、もう誰も書いてくれない。腕の一本、足の一本は折られるだろうと覚悟を決めていたよ。でも無茶過ぎたね。前の晩は準備で2、3時間しか寝なかった。

 髪の毛を赤くそめて、黒いタキシードに手榴弾をいっぱいつけて、太い赤いマフラーを首から垂らしてね。今、猪木さんがあれやっているでしょう。オレの方が先だからね(笑)。斎藤とは別に、悪い関係じゃないですよ。ただ、『オレは試合前にお前に勝つんだ』ってああやったんです。アホの一言ですよ」

 小鹿は常に話題作りを考えていた。全日本時代には『修羅の群れ』など映画にも出演。大日本でも演劇やミュージカルに出た。一軒家プロレスなんていうのもやった。

【次ページ】 「結局、オレもプロレスバカなんだね」

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