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平昌を逃し、体調不良で1年休養…それでも心を折らなかった三原舞依の4年間「私からスケートをとったら何も残らない」 

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松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byAsami Enomoto

posted2022/01/09 06:00

平昌を逃し、体調不良で1年休養…それでも心を折らなかった三原舞依の4年間「私からスケートをとったら何も残らない」<Number Web> photograph by Asami Enomoto

フリーは後半のミスが響き、代表の3枠には入れなかった三原。今月中旬から開催される四大陸選手権に出場予定

 そして重圧がのしかかっていた。

 フリー当日朝の公式練習後、体の重さを感じていたという。

「緊張もあって、6分間練習ではぜんぜん動けませんでした。足も震えて力も弱かったです」

 開幕を控えた公式練習後、三原は言った。

「オリンピックは目標で、すごく行きたい舞台です」

 4年前の平昌五輪も有力候補にあげられながら、切符は手にすることができなかった。あのときはショートプログラムに苦しんだ。「ショートの振り付けを始めた頃からやり直したいです」。強い後悔があった。その分の思いも2度目の五輪シーズンに込めていた。しかし、ここ一番でショート、フリーと演技をそろえられなかった。ただただ、悔しかった。

 でも--。

「すごくいろいろなことがあった4年間で、この4年というのはすごく大変でしたけれどあっという間で、今考えるといろいろなことがあったけれど、少しは前に進めたのかなとプラス思考に捉えようかなと思います」

競技復帰を支えた三原の“強さ”

 いろいろなこと、と繰り返した。

 中でも、2019年の夏から体調不良により1シーズンを休養。復帰が昨シーズンの秋となったことこそ、その最たるものではなかったか。そこから五輪代表の候補として再び氷上に立ったのだ。

 2018年1月、平昌五輪代表を逃した翌月、三原が語った言葉がある。

「たぶん心は折れないです。折れたときはご臨終している、死んでいると思います。私からスケートをとってしまったら何も残らないと思うんです」

 心は折れなかった。どこまでも、どこまでも強かった。この4年間はその証にほかならない。

 三原は試合のとき、いつも観客席の最上階まで上がる。全日本選手権の舞台となったさいたまスーパーアリーナでも会場入りしたあとに上がっている。その理由をこう語っていた。

「いちばん高いところから見ている観客の方にも演技が届くように、という思いからです」

 ショートでもフリーでも、氷上の三原には拍手が降り注いだ。演技を受け取った観客から、4年間への思いが込められているようだった。

 あっという間だった4年は過ぎた。そしてここから再び、三原舞依は観客の心を揺さぶるスケーターとして進んでいく。

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