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「こんな弱っちい姿を見るのは初めて」浦和で14年間追い続けたカメラマンが思い出す、阿部勇樹が“漢”になった夜
posted2021/12/17 11:06
text by
近藤篤Atsushi Kondo
photograph by
Atsushi Kondo/URAWA REDS
田根剛という建築家がいる。
1979年生まれ、日本を代表する建築家の一人である。エストニア国立博物館をはじめとして、世界を舞台に、さまざまな建築物、インスタレーション、あるいは舞台芸術を手がけてきた。サッカーファンなら2012年、8年後のオリンピックに向けて催された「新国立競技場基本構想国際デザイン競技」でファイナリストに選ばれた古墳スタジアムという斬新なコンセプトを覚えている人もいるだろう。あれも彼の作品である。
その田根剛は高校時代、プロサッカー選手になることを目指していた。所属チームはジェフ市原ユース、同年代には酒井友之、村井慎二、佐藤寿人、勇人、そして阿部勇樹がいた。
以前ある展覧会で彼を見かけた時、こう話しかけたことがある。
「あの頃の市原ユースでサッカーをやっていたなんて、相当上手だったんですね。阿部勇樹と同じチームでやっていたんですよね?」
彼はこう答えた。
「阿部さんは2歳下だったかな。たしかにカテゴリーは被ってますけど、一緒にやったことはあまりなかったですね。当時僕は本気でプロを目指していたんですけれど、彼のプレーを見てわかっちゃったんですよ。こんなにすごいやつがプロを目指すのか、じゃあ、オレには無理だな、と」
15歳の阿部勇樹は結果的に、並外れた才能を持つ世界的建築家をこの世界に生み出すことになった。
みんな知っていた「重要なお知らせ」
それから25年後の秋の終わり、阿部勇樹はさいたま市にあるホテルの大会議場バックステージにいて、15分後に始まる記者会見にスタンバイしていた。
11月14日、クラブから重要なお知らせがあります——マスメディアへの事前通知はただそれだけだった。告げるなら、自分の口から告げたい、それが当日の主役の希望だった。
しかし、当日集まったメディアの面々はすでにその発表の内容が何なのか、知らないふりをしていたが、全員が知っていた。
仮に関係者全員が箝口令を守ったとしても、シーズンの終わりをあと数週間後に控えた11月中旬、浦和レッズが「とても大事な発表がある」と重々しくアナウンスすれば、大抵のレッズファンならピンとくる。
そっか、阿部ちゃんついに決めたのか、と。