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「お前もボランチのようにプレーしろ」中盤深めで守備の要+攻撃の起点=ボランチ… “伝説の初代”ナゾ経歴を調べてみた 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byJ.LEAGUE

posted2021/12/20 17:01

「お前もボランチのようにプレーしろ」中盤深めで守備の要+攻撃の起点=ボランチ… “伝説の初代”ナゾ経歴を調べてみた<Number Web> photograph by J.LEAGUE

ジュビロ時代、福西崇史を指導するドゥンガ。ボランチと言えばブラジル人の中盤の名手が思い浮かぶが「カルロス・ボランチ」はアルゼンチン人だった

 ブラジルは、南米大陸の約48%を占める巨大な国だ。飛行機による移動が一般的になる1950年代まで全国レベルの大会が存在せず、各地で行われる州選手権が主な大会だった。当時、最もレベルが高かったのがリオ州選手権で、リオ州王者は国内王者と同義語だった。

 カルロス・ボランチは1943年、38歳で現役を引退した。母国アルゼンチンへ戻り、1945年、古巣CAラヌスの監督を務める。そして1946年、ブラジル南部の強豪インテルナシオナルの監督に就任。1947年から2季連続で州選手権を制覇した。さらに、ブラジル北部ヴィトリアの監督に招聘されると、1953年と1955年の州選手権で優勝した。

 1959年、この年に創設されたタッサ・ブラジル(ブラジル杯)の決勝で、北部の強豪バイアがキング・ペレ率いる名門サントスと対戦。互いにアウェーで勝利を収めて1勝1敗となり、1960年3月に中立地リオで行われる第3戦で決着がつけられることになった。

 バイアの監督が1960年初めに退任すると、カルロス・ボランチが後任に就任。リオのマラカナン・スタジアムで、エース・ペレを故障で欠いたサントスを3-1で下し、初代ブラジル王者となった。

 1960年、南米クラブ王者の座を争うコパ・リベルタドーレスが創設され、ブラジル代表としてバイアが出場。引き続き、カルロス・ボランチが采配を振るった。

 バイアは、指揮官が選手時代に在籍したサンソレンソ(アルゼンチン)とグループステージで対戦。互いにホームで勝って1勝1敗だったが、得失点差でサンロレンソが優り、バイアは敗退した。

「ボランチ=舵取り、ハンドルを意味するから」ではなく

 この年、カルロス・ボランチはバイアの監督を退任。アルゼンチンへ戻り、1970年代にはイタリア人の妻とともにミラノへ移り住んだ。そして、1987年10月9日、かの地で亡くなった。

 これが、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、フランスの資料を総合して再構成したカルロス・ボランチのキャリアと数奇な生涯である。

「中盤の深い位置から攻守両面でチームを操る選手のことを、ブラジルではボランチと呼ぶ」のは事実だが、それは「ボランチという言葉がポルトガル語で舵取り、ハンドルを意味するから」ではない。

「中盤の深い位置でプレーしながら、守備専従ではなく攻撃の起点ともなる、という当時としては画期的な役割を果たしたブラジルで最初の、そしておそらく世界でも最初の選手だったカルロス・ボランチの苗字を取った」のである。

 ひとつの間違いが多くの間違いを生み出すことは、しばしばある。とはいえ、なぜこのような間違った説が日本でかくも広く流布したのか――。この疑問について、第3回で考察してみたい。<続く>

#3に続く
ブラジルの超大物監督も「ボランチの語源」を知らなかった!《なぜ日本で「ボランチ=舵取り」説が広まったか》

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