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「クイック攻撃を完全に封じている…」30年前、《リードブロック》という革命を日本に持ち込んだ“アメリカ人のお爺ちゃん”とは?
posted2021/10/15 11:02
text by
市川忍Shinobu Ichikawa
photograph by
Ryosuke Menju/JMPA
2021年の夏、日本の男子バレーボール界隈は明るいニュースに包まれていた。
東京オリンピックの予選ラウンド、全日本男子は初戦のベネズエラ戦でバルセロナ大会以来となる29年ぶりの勝利を挙げた。その後も勝利を積み重ね、Aグループを3勝2敗で勝ち抜く。実に29年ぶりに決勝トーナメントに進出したのだ。何より、世界標準の戦い方を身につけた若き全日本男子チームの戦いは、見ていて心が躍る内容だった。選手たちの目には、これから先、自分が何を強化すべきか、何を手に入れれば世界トップを目指せるのか、現時点での課題がはっきりと見えたことだろう。
オリンピックでの全日本の戦いを配信やテレビで見た視聴者にも、“シンクロ攻撃”や“フェイクセット”など、全日本男子が見せたプレーは強烈な印象を残したのではないだろうか。全日本男子がオリンピックの舞台で最後の勝利を挙げた29年前には、これらはまだバレーボール界に浸透していなかった戦術である。それが現在では、代表チームの当たり前のプレーとなった。
そして29年前といえば、今でこそほとんどのチームが取り入れているリードブロックシステムが、アメリカナショナルチームで確立し始めたころだ。近年では解説者の口からも「リードブロック」という単語が出てくるのが当たり前となっているが、マンマークで跳ぶコミットブロックが主流だった日本に、人ではなく、ボールを追って跳び、しかもブロッカーがチーム戦術に則り一丸となって動くリードブロックシステムが海を越えて渡ってきたのも、また、30年ほど前のことである。
そのとき、リードブロックシステムは、どんな経緯で日本にやってきたのだろうか。日本で初めてリードブロックシステムを取り入れたチームであるNECブルーロケッツ(2009年休部)の、当時を知る4名のOBに話を聞いた。
当時30歳の寺廻「限界を感じていた」
最初に証言してくれたのが当時、NEC男子の監督を務めていた寺廻太(現・PFUブルーキャッツ強化部長)だ。寺廻はNECの選手として活躍し、その後、同チームのコーチとなった。1988年、監督に昇格しチームの指揮を執ることとなる。
寺廻はコーチから監督に昇格したばかりのころをこう振り返った。
「私がコーチから監督になったのが第22回日本リーグ(88~89年)なのですが、そこからの3シーズン、NEC男子はそれぞれ4位、準優勝、3位と優勝に手が届きませんでした。第24回日本リーグを3位で終えたあと、私はすっかり自信を失っていました。自分の限界を感じて『もうバレーボールをやめよう』と思い、一度、会社のほうにその気持ちを伝えたのです」
当時の寺廻の年齢は30歳。選手とさほど歳の変わらない青年監督だった。
「NECには非常にいい選手が集まっていました。それなのに、自分の力不足のせいでその素晴らしい選手が優勝もできず選手生命を終わってしまうのではないかと考えると居たたまれませんでした。それで、会社に監督を辞めさせてほしいと言いに行ったんです」