情熱のセカンドキャリアBACK NUMBER
世界王者を4人育てた帝拳ジムの名トレーナー・葛西裕一は、なぜアマチュアの“ボディメイク”指導者に転身したのか
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byYuki Suenaga
posted2021/10/01 06:00
今はアマチュア相手にボクシングやボディメイクを指導している名トレーナー葛西氏
帝拳ジムに骨をうずめるつもりだったが……
葛西がジムを立ち上げた2017年当時はアマチュアを対象にしたボクシングジムが増えていた時期でもあった。時流に乗っかったというわけではまったくない。「ボクシングがもっと広く浸透してほしい」という思いは元々あったからだ。
帝拳のトレーナーとしてジムに骨をうずめるつもりだった。だが後輩トレーナーが育っていくにつれて、ジムにほかの形で恩返しできるのではないかと考えるようになった。
葛西は現役時代“帝拳のホープ”として注目を集めていた。
大橋秀行らを輩出したボクシングの強豪・横浜高3年時にバンタム級で全日本高校王者となり、専修大学を中退後の1989年8月に名門・帝拳ジムからプロデビューを果たした。
中学生のときに「世界チャンピオンになる」と心に決めてボクシングを始め、憧れた大場政夫が所属したジムの門を叩くのも心に決めていた。
連戦連勝で無敗のまま日本チャンピオンに
連戦連勝で無敗のまま4年後に日本チャンピオンに駆け上がる。スタイリッシュなボクシングと、端正な顔には似つかない負けん気の強さは、大器の片鱗をうかがわせるに十分だった。
満を持して1994年3月、WBA世界ジュニアフェザー王者ウィルフレド・バスケス(プエルトリコ)に東京体育館で挑戦する。
33歳のバスケスは4カ月前、横田広明との防衛戦で苦戦を強いられており、勢いのある葛西が有利という声が広がっていた。だが当の本人と陣営は警戒を強めていた。
「バスケスが強いのは分かっていました。スタミナと若さで勝負しないと勝てない、と。中盤からペースを上げていく後半勝負と考えていたんです。でも最初に突っ込みすぎてジャブを(右クロスで)合わされて、あれでもうプランが吹っ飛んじゃいましたよ。読まれていたのは確かですけど、今見ても、バスケスが合わせたタイミングは凄いですよ」
開始すぐに合わされた右クロスが頭から離れない。開始40秒、強烈な右アッパーを食らい、そして同じように左ジャブを合わされた。プロ初ダウンを喫したホープは立ち上がって打ち合いに活路を見出そうとするが、逆に2度ダウンを許してしまう。世界初挑戦はわずか125秒で終わってしまった。
葛西は当時の記憶を思い起こすと、フーッと大きな息を吐く。