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《追悼》19歳の見習い記者に「一緒にプレーしていいですか?」ゲルト・ミュラーの“記憶と記録に残る”ゴール感覚と謙虚な人柄 

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中野吉之伴

中野吉之伴Kichinosuke Nakano

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photograph byGetty Images

posted2021/08/24 17:04

《追悼》19歳の見習い記者に「一緒にプレーしていいですか?」ゲルト・ミュラーの“記憶と記録に残る”ゴール感覚と謙虚な人柄<Number Web> photograph by Getty Images

75年の生涯に幕を下ろしたゲルト・ミュラー。数々の記録を作ったストライカーは、謙虚な人柄でも多くの人に愛された

1860ミュンヘンへの移籍の可能性もあった

 1945年11月3日にネルトリンゲンで生まれたミュラーは、18歳の時にトップチームで28試合47得点という記録を打ち立てた。1964年初春のある日曜日。当時2部に所属していたバイエルンの代表取締役バルター・フェムベックは、ミュラー獲得へ向けミュンヘンから140km離れたネルトリンゲンへ車を飛ばした。

 ちょうど同日、バイエルンのライバルクラブであり、当時は1部常連だった1860ミュンヘンの会長ルートビヒ・マイアーベックも、ネルトリンゲンへ電車で向かっていた。しかし、電車が遅延したために先にコンタクトができたのはバイエルンのフェムベックだった。マイアーベックがついた時には、すでにミュラーとバイエルンは契約合意に達していたのだ。

 あの時、電車が時間通りについていたら、1860ミュンヘンが先に交渉していたら、バイエルンへの移籍はなかったかもしれない。そうであれば、おそらく今のバイエルンはない。黄金時代を築くことができず、リーグ9連覇中の盟主でもなく、ブンデスリーガのいちクラブとして存在していたかもしれない。巡り合わせの妙を感じてしまう。

「ゲルトはいつでも勇敢な戦士でした」

 最後のときが近づいてきている予兆はあった。

 ミュラーの妻であるウッシー夫人は、アルツハイマー型認知症を患い、6年前から介護施設で暮らしていたミュラーを毎日訪問して、寄り添い続けてきた。1年前までは会話をすることもできたし、外出することもできたという。しかし、病状は徐々に進行する。

「もうほとんど何も食べていないですし、飲み込むこともできないんです。24時間ベッドの上で、目を覚ます時間はほんのちょっと。それでも、少しでも目を開けてくれるだけで幸せなんです」

 昨年11月にミュラーが75歳の誕生日を迎えるにあたり、ウッシー夫人はそうドイツ紙の取材に答えている。最後のときを覚悟していたからこそ、こう話していた。

「ゲルトはいつでも勇敢な戦士でした。自分の運命を、病気のことを深く考えることなく、静かに、安らかに、ゆっくりと旅立ってほしい」

 最愛の人に看取られて75年の生涯を終えた。いまごろ天国で、かつてのサッカー仲間と一緒にボールを追いかけて、ゴールを決めて、喜んでいるのだろうか。

 いつもゴール後に見せてくれていた、ジャンプしながらのガッツポーズとともに。

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