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「クラブもなければ仕事もない」CL王者チェルシーの守護神エドゥアール・メンディが職安に通った6年前の無職の日々 

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posted2021/08/15 11:00

「クラブもなければ仕事もない」CL王者チェルシーの守護神エドゥアール・メンディが職安に通った6年前の無職の日々<Number Web> photograph by L’Équipe

1992年生まれ、29歳のメンディ。セネガル、フランス、ギニアビサウと3つの国籍を持つが、代表としてプレーするのはセネガルを選択した

「2006年にル・アーブルの育成センターで、『別のGKをチームに入れることにしたから君はもうここでプレーはできない』と言われた14歳の頃だ。ル・アーブルは僕の地元のクラブで、1年前からプレーしていた(註:ル・アーブルACは育成に定評があり、ビカシュ・ドラソーをはじめとするフランス代表をこれまでに輩出)。家族はもちろん近所の人たちにとっても僕は誇りで、誰もが僕のことを気にかけていたし、僕もここで成功したかった。育成センターに入ると、U18からCFA、プロへと続く道を誰もが思い描く。だがU16で道が途絶え、近所のクラブで再びプレーせざるをえなくなった。二重の意味で屈辱だった」

――コークリオービル(メンディが生まれたル・アーブルの地区)には失意を抱いて帰ったのですか、それとも一時的な不遇だと思っていましたか?

「クラブから完全に離脱したわけではなかった。平日はル・アーブルで練習し、週末だけミュニシポー・デュアーブル(註:地域のチーム)でプレーした。でも解雇を告げられた日は、家に戻ると両親がもの凄くがっかりした。親にあれほど悲しい思いをさせる以上に酷いことはない。彼らの表情ときたら……。こう思ったよ。『なんてこった。絶対に成功して彼らに笑顔を取り戻させる。ここでは無理でも、どこか別の場所で必ず成功する』と。この日からサッカーは、いろいろな可能性のなかのひとつのオプションではなくなった」

18歳で味わった2度めの挫折

――それでは2度目の挫折は?

「ほとんど誰も知らないが、2009~10年にレンヌのテストを受けたときだ。ノルマンディカップの準決勝で僕らはエブルーと対戦した。観戦に来たレンヌのスカウトが監督にこう言った。『あのGKは誰だ。彼をテストしたい』と。試合の後でそのことを監督から告げられた。僕はこう思った。『いったい何の話なんだ? スタンドでスカウトのふりをしていた人間に会っただけだろう』と。何も考えていなかったんだ。それからそのスカウトが僕にメッセージを送ってきて、その後にクラブからの手紙と招待状が届いた。

 それでレンヌまで行き、すべては順調に過ぎた。彼らはもっと長く僕を見たいと言った。2週間後に再び出かけて、プルーフラガンでおこなわれた育成センター間の大会に参加した。僕も出場し感触は良く、うまくいくだろうと思った。ところが最終戦の直前に、彼らはアブドゥライエ・ディアロ(4月27日時点でノッチンガム・フォレスト所属、セネガル代表)ともうひとり1992年生まれのGKの加入を決めた。規定により3人目は採用できない。不採用を告げられたときは……(ため息をついて)最悪の気分だった。僕は18歳になっていて、育成センターに入る最後のチャンスだと思っていた」

【次ページ】 無職時代に感じた喪失感

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