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本田宗一郎没後30年目のハンガリーGPで勝てず首位陥落のホンダ…世界一の夢を描いた「オヤジ」ならどんな言葉で激励するか

posted2021/08/06 11:01

 
本田宗一郎没後30年目のハンガリーGPで勝てず首位陥落のホンダ…世界一の夢を描いた「オヤジ」ならどんな言葉で激励するか<Number Web> photograph by Getty Images

ハンガリーGPでスタート直後の多重クラッシュに巻き込まれたフェルスタッペンは、マシンにダメージを負いながらも9位入賞、2ポイントを獲得した

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尾張正博

尾張正博Masahiro Owari

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 90年12月、シーズン終了後に開催された国際自動車連盟(FIA)の表彰式で特別功労賞の表彰を受けた本田宗一郎は、同年のドライバーズ選手権チャンピオンに輝いたアイルトン・セナに、こう約束した。

「セナ君、おめでとう。来年もナンバーワンのエンジン、作るよ」

 それを聞いたセナは感極まって涙した。

 翌91年、ホンダは前年までのV型10気筒時代のエンジンよりも5.5kg軽量化されたV型12気筒エンジンRA121Eを投入。パワーだけでなく、運動性能面でも大きなアドバンテージとなり、まさにナンバーワン・エンジンに相応しい性能を披露。セナが駆るマクラーレン・ホンダは開幕から4連勝した。

 しかし、その後はライバルたちの反攻に遭い、ホンダはなかなか勝利を収めることができないまま、第10戦ハンガリーGPを迎えようとしていた。

 その直前の8月5日、ホンダのスタッフに訃報が届く。「本田宗一郎、逝去」

 現在、ホンダF1のテクニカルディレクターを務めている田辺豊治は当時、セナのチームメートであるゲルハルト・ベルガーのエンジンの担当エンジニアとして、その訃報をハンガリーへ出発する前のイギリスのホンダのファクトリーで聞いた。

本田宗一郎の遺志

「私がホンダに入社する少し前、第2期F1活動が始まっていました。F1に挑戦していることは、ある意味入社のきっかけになりました。そのホンダを率いてこられた本田宗一郎さん。私も実際に研究所で声を掛けられたこともありますし、レースにいらして激励されたこともありました。

 その本田宗一郎さんがお亡くなりになったことは、私たちホンダのスタッフにとってショックでしたし、同時に非常に大きな喪失感に襲われました。ただ、F1に勝って世界一になることが本田宗一郎さんの夢であり、そのことは私たちも理解していました。遺志を汲んで、強い気持ちで戦っていかねばならないと、さらに闘争心を燃やしてハンガリーGPに臨みました」

【次ページ】 ホンダ伝統の「三現主義」

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