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「清原とオレで…長嶋さんの悩む顔を見たくない」“日本人初の1億円プレーヤー”落合博満のオレ流移籍人生《43歳でも3億円》

posted2021/09/06 17:01

 
「清原とオレで…長嶋さんの悩む顔を見たくない」“日本人初の1億円プレーヤー”落合博満のオレ流移籍人生《43歳でも3億円》<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

1987年のシーズン、ロッテから中日へ移籍した落合博満。年俸は9700万円から1億3000万円にアップ

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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BUNGEISHUNJU

長嶋、王、バースから古田、桑田、清原まで……球界を彩った24人のスターたちは「最後の1年」をどう過ごしたのか? 去り際の熱いドラマを描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)が重版され、売れ行き好調だ。そのなかから、“球界初の1億円プレーヤー”落合博満の現役引退までを紹介する(全2回の前編/後編へ)。

「自分を一番高く買ってくれる球団と契約したい」

 かつてそう堂々と公言して物議を醸した大打者がいた。ロッテ時代の落合博満である。打率.360、50本塁打、116打点で前人未到の三度目の三冠王に輝いた1986(昭和61)年のオフ、尊敬する稲尾和久監督が去り、現役を引退したばかりの“ミスターロッテ”有藤道世が40歳の若さで監督に就任する。その際の条件のひとつが、圧倒的な個人成績で年俸も高騰していた落合の放出と言われていた。要は存在が大きくなりすぎて青年監督には扱いづらいというわけだ。当然、そういう会社の思惑は内側にいれば勘づく。ああそうかい、出されるくらいなら、オレから出てやるさ。落合は黙って組織にその身を委ねるようなタマじゃなかった。冒頭の移籍志願ともとれる発言は、秋の日米野球参加中に放ったジャブである。

 そして、86年12月23日に、噂されていた巨人ではなく、こちらも若き星野仙一新監督が率いる中日へのトレードが決まる。背番号は慣れ親しんだ「6」、新年俸は1億3000万円。球界初の日本人1億円プレーヤーが誕生した。あえてオレ流という劇薬でチームを活性化した星野は、就任2年目に中日をリーグ優勝に導き、三冠王を手放す悪手で打線が弱体化したロッテは球団初の2年連続最下位と低迷。有藤はわずか3年でその座を追われることになる。全盛期の落合博満には、多くの男たちの運命を変えてしまう力があった。

「オレもラモスもそれを実現している数少ない人間でしょう」

 あなたはそんなオレ流・落合の現役最終年の打撃成績を知っているだろうか? 個人的に、落合が巨人を追われて日本ハムへ移籍したことはもちろん覚えている。97年のオールスター戦では仰木彬監督の計らいで全パ1番打者として打席に立ち、当時17歳のアイドル広末涼子の始球式に笑顔で付き合っていた。でも、肝心のシーズン成績はどうだったのだろうか?

【次ページ】 「オレもラモスもそれを実現している数少ない人間」

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