球道雑記BACK NUMBER
あのドラ1は今…「当時の自分をボコボコに」“二刀流”候補だった元ロッテ柳田将利、わずか3年のプロ人生で最初についた嘘とは
text by
永田遼太郎Ryotaro Nagata
photograph byKYODO
posted2021/07/09 11:02
2005年夏の甲子園でホームランを放ち、ガッツポーズを見せる青森山田の柳田将利。ドラフト1位でロッテに入団するも、わずか3年でプロ野球界を去った
「嘘つき」とまで言われた理由。その発端は、2006年のオーストラリア春季キャンプ中のある出来事だった。
「1年目のオーストラリアキャンプで、(球団から)減量指令が出たんですが、その矢先に、球場からホテルに向かう帰り道にあったファストフードで、両手に抱えるほどのチキンをホテルに持ち帰ったんです。そのとき、コーチに『お前、痩せなアカンって言われているのに、それ持って、なにしとるんや!』と見つかったんです。そこで、咄嗟に『先輩に買って来てと言われました』と、隣にいた先輩を売ってしまった。それが(後々)チーム内で広まっていって『こいつ嘘つきやな』って。最初の大失敗ですよね」
高校時代は103キロだった体重が、プロ入り時は112キロまで増えた。けっして鍛えて大きくなったわけじゃない。ただの準備不足である。当然、ロッテ首脳陣からは減量指令が出されていたが、その意識の低さに周囲が呆れかえっていた。
その後も柳田さんは失敗を繰り返した。巻き返しを図りたい1年目のシーズンオフ。こっそり寮を抜け出しては夜な夜な“クラブ遊び”に出掛けてしまう。
「オフの過ごし方が本当に下手で、その大事さが分かっていないんですよ。遊びが楽しくてしょうがないんです。(小さい頃から)ずっと野球に縛られてきて、女の子も知らん状態で(プロに)入っているわけじゃないですか。そっちのことばかり考えて、野球に集中していなかったんです」
高卒1年目。本来ならもっと野球に専念しなければいけない時期だった。
「もちろんそれは分かっていましたし、当時はだいぶ悩みましたよ。『これじゃ一軍に行かれへんな』って。本来ならそこで『なにくそ』と思って、追い込むことが出来るんでしょうけど、どこかで諦めている自分がいるんです。それが何かは分からないんですけど、とにかく(自分を)奮い立たせることが出来なかったんです」
高校時代の猛練習、父からの期待
柳田の失敗の裏にあったもの。それは、“やらされる”まま続けてきた野球への「燃え尽き」だった。小学校から野球を始め、高校は名門・青森山田へ。そこで春夏通じで計3回の甲子園を経験した。当然、アマチュア時代から想像も絶するような厳しい練習を重ねてきたことで、その記憶から「練習」という言葉に拒否反応が現れていたという。
「高校の冬の練習って公で言えるレベルの練習じゃないんですよ。内容が鬼すぎてね。とにかく冬場は追い込むんです。たとえば青森は雪が凄いので長靴を履いて、雪の中を20キロとか走ったり、どこの高校も冬は下半身を強化する時期って考えがあるじゃないですか」
頭ではこれじゃいけないと分かっていても心も体も全体練習に付いて行くのがやっとという状態だった。
高校通算38本ものホームラン。投げては最速146キロのストレートと変化球を巧みに操りエースも任された。さらに父親から感じる大きな期待もあって、好きで始めた野球が徐々にやらなければいけないものに変わっていった。