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「大谷のスライダーは真横に“消えた”」9年前、花巻東高校で18歳大谷翔平のボールを受けた私の衝撃体験
posted2021/06/30 11:04
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph by
KYODO
まさか、こんなにすごいことになろうとは想像していなかったから、ずいぶんと失礼なお願いをしてしまったものだ……と、今となって思っている。
大谷翔平選手が花巻東高校の3年生だった2012年の秋……ある野球雑誌の連載企画「流しのブルペンキャッチャーの旅」で、私は大谷の全力投球を、花巻東高校グラウンドのブルペンで受けている。
もちろん当時から、逸材の上に「超」の付く大物投手という定評で、ドラフト1位間違いなしの存在だった。
その3年前、私は同じ花巻東高校の菊池雄星投手(西武→マリナーズ)のピッチングを受けさせていただく光栄にも浴していた。ほかにも、何かと理由をつけて花巻東高のグラウンドにおじゃましていたのは、芝生の美しい自然公園の中にグラウンドがあるような環境がすごく清々しい気分になるのと、佐々木洋監督との野球談義がとても勉強になるからだった。
そんな事情もあったから、こちらの厚かましいお願いを、佐々木監督がお聞き届けくださったのだと思う。
その代わりに、
「とんでもないボールですよ……」
きっちりと「覚悟」も求められていた。
アマチュア野球史上初の「160キロ」
高校3年夏の大谷翔平は、その年の高校球児で最も注目される存在だった。そんな中で、前年の春に記録した「151キロ」をはるかに超える「160キロ」を、岩手県大会準決勝でマーク。アマチュア野球史上初の「大台」クリアとなった。
夏の大会前は、大谷もチームも佐々木監督も、何かと大忙しだろうと思って、ひと段落しているはずの「秋」でお願いしていた。
ある頃から、高校生投手との「ブルペンキャッチャー」は「秋」にお願いするようになっていた。高校球児のシーズンはとても忙しい。ウィークデーの練習と土日の練習試合に公式戦。そんな日常に、単に話を聞くだけじゃない「特殊な取材」を突っ込んで、迷惑や負担をかけてはいけないんじゃないか。先方のご厚意に甘えて取材させていただく者の、せめてもの気遣いと考えた。
なんだ、現役上がった後なのか……嘲笑まじりにそう言う人もいたが、冗談じゃない。現役上がって、練習のノルマもなく、実戦のプレッシャーもなく、ノンストレスの「軽い肩」でビュンビュン投げ込んでくる快速球、剛速球のすさまじさがどんなものだか、受けてみるがいい。
「さあ、殺せ!」開き直りしかない
大谷翔平、高校3年秋の剛速球も、まさにそんな「とんでもなさ」だった。