Number ExBACK NUMBER
「こんなに苦しかったんだ、痛かったんだ」 瀬古利彦が語る、34歳で世を去った長男・昴さんがたどった“がんマラソン”の足跡
posted2021/07/03 11:02
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph by
瀬古利彦提供
都内の桜が若葉に生えかわった4月13日、瀬古利彦さんの長男である昴さんが34歳の若さでこの世を去った。
25歳の頃、ホジキンリンパ腫という血液のがんの一種を患ってから、およそ9年にわたって彼が駆け抜けたのが“がん”のマラソンだった。難治性の病で、何度も入退院を繰り返す中、彼はこの分野の“トップランナー”を自認する(亡くなる約ひと月前、『がんマラソンのトップランナー 伴走ぶっとび瀬古ファミリー!』(文藝春秋企画出版部)という初めての著作であり、遺作を世に送り出している)。
過酷ながんマラソンにパイオニアの精神で挑んだ昴さんの生き様とはどのようなものだったのか。
瀬古さんが幼少期からの歩みを振り返る。
歯ブラシを捨てるときでも「ありがとう」って
「子どもの頃から昴は優しかったです。困った人がいたらその人のためになりたいとか、そういうことはよく言っていました。たとえば歯ブラシを捨てるときでも、『今まで僕の歯を守ってくれてありがとう』って、手を合わせてから捨てていた。私が教えたわけじゃないから、それが昴の性格だったんだろうね」
感受性の豊かな少年は、中高と野球に打ち込み、勉強もよくできた。陸上競技をやらなかったのは、マラソンのトップランナーである父と比べられるのがいやだったのかもしれない。やがて慶応大学へ進むと、環境問題に熱心に取り組むようになる。
「マイ箸、マイコップなんてずっと前から実践していましたね。私はサッカーの岡ちゃん(岡田武史氏)と早稲田の同級生なんだけど、昴が岡ちゃんの講演会を聴きに行ったことがあって。その日は『お父さんと岡ちゃんは全然違う。もっと見習わなきゃ』ってずいぶん怒られました(笑)」
大学生の時にはエコ文化について学ぶため環境先進国のドイツへ短期留学をした。交友関係は広がり、前途には無数の選択肢があった。就職先には食品販売会社を選ぶが、入社2年目の春にあの震災が起きる。東日本大震災で原発の危険性や問題点が明るみに。昴さんはこれに怒りを覚えた。
「感受性が強いんだろうね。悪いことが許せないんです。原発ももともと昴は反対していて、皇居前のデモなんかにも参加していた。それで会社を辞めて、見聞を広めるためにピースボートに乗って旅をするんだけど、帰りの船の中ではすでに体調が悪かったんだね……」