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ラグビー元日本代表・山田章仁はなぜアメリカに? 今年で36歳「ようやく研修が終わった」の真意とは【過去には二刀流も】
text by
大友信彦Nobuhiko Otomo
photograph byAkihito Yamada
posted2021/06/09 06:00
新天地シアトル・シーウルブズの練習着姿の山田章仁。13日は畠山健介がいるニューイングランドジャックスとの試合を控える
前半17分、シアトルは相手ゴール前でFWが何度も何度も相手ディフェンスの壁に挑んでいた。ゴール前1mを挟んだ意地の張り合い。フェイズが重なり、攻防が膠着する。そこに、いつのまにか背番号15をつけた山田がするすると現れた。
山田はラックからボールを拾い上げると相手DFの壁にアタック。そこではゴールラインに届かなかったが、そこにいるはずのない背番号15のアタック参加は膠着した状況に破調をもたらしたのだ。その次のフェイズで味方No.8ハッティング主将がゴールラインにボールをねじこんだ。チーム初トライ。
「ゴールラインが近づいて、僕らBKの選手もFWを助けたいという思いがあって、積極的にいきました。得点に絡んだというより、チーム一体でラグビーできたことがよかったかなと思います」
チャレンジの機会は逃さない。ここぞと思えば、自分の守備範囲を離れることも辞さない。リスクを恐れずハイリターンを手に入れる。それは今回のシアトル移籍とも繋がる山田の生き方そのものだ。
個人留学、二刀流挑戦、米国は4カ国目
慶大時代はチームを離れオーストラリアへの個人留学を敢行し、プレーヤーとしてのレベルアップと英語力を手に入れた。パナソニック時代はアメリカンフットボールのノジマ相模原ライズに入団、二刀流フットボーラーにチャレンジした。15年W杯の前にはスーパーラグビーのフォースと契約し、19年にはフランスのリヨンでもプレーした。
日本、オーストラリア、フランスそしてアメリカ。4カ国(それも異なる大陸だ)でプロ選手を経験した日本人選手はそうはいないだろう(13年にはNZのオタゴでもプレーしたがプロ契約は果たせなかった)。
山田は言う。
「もともと僕は、子どもの頃からグローバルな人間になりたかったんです。ラグビーはそのためのツールというか、自分が世界に出て行くために一番役立つ味方だった」