情熱のセカンドキャリアBACK NUMBER
大学で「電気通信工学」を勉強→なぜかプロレスラーに→今は新日本の広報…井上亘が“波乱の人生”を語る
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byYukio Hiraku/AFLO
posted2021/06/06 11:00
現役時代の井上亘(2009年撮影)
東京電機大学で「電気通信工学」を学ぶ
幼少のころからアトピー性皮膚炎やぜんそくに悩み、スポーツは得意なほうだったものの、野球も水泳も陸上も長続きはしなかった。
「これからはテクノロジーの時代」と父の助言もあって東京電機大学に進学したものの、「電気通信工学」の勉強にのめり込めたわけでもない。勉強もスポーツも、熱中できるものが見つからなかった。
すべては体を鍛えてから。
当時大学3年生だった井上は、アニマル浜口トレーニングジムに入門することを決める。ウエイトトレーニングに、レスリングに。プロレスは好きだったが、プロレスラーになることが目的ではなかった。
トレーニングは楽しかった。鍛えれば鍛えるほど、体のみならず心も強くなっていく感覚があった。就職活動はそっちのけ。「健康が一番だから、好きなようにしなさい」と都内でクリーニング店を営む両親の理解があったことも大きかった。アトピー性皮膚炎の症状がつらくても、いろんなことを前向きに捉えられるようになっていた。
卒業後も就職せず、浜口ジムに通ってトレーニングすることが生活のメーンとなった。親に甘えるわけにもいかないため、いろんなアルバイトをこなした。駅に夕刊紙を届けたり、葬儀の手伝いをしたり、浜口の紹介で内装業もこなしたり。浜口ジムは多くのプロレスラーを輩出しており、OBたちがたまにやってきて教えてくれたりもしていた。
プロレスラーになるつもりはないのだが、鍛錬の成果がどれほどのものなのか試したいと思った。武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也が“闘魂三銃士”として引っ張っていた新日本プロレスに応募することにした。プロレス中継は見ていたし、元々初代タイガーマスクが好きだった縁もある。
柴田勝頼らと一緒に合格を告げられた
1996年12月、東京・世田谷にある新日本道場において入門テストを受けた。しかし不合格に終わったことで、闘志に火がついてしまう。