情熱のセカンドキャリアBACK NUMBER
大学で「電気通信工学」を勉強→なぜかプロレスラーに→今は新日本の広報…井上亘が“波乱の人生”を語る
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byYukio Hiraku/AFLO
posted2021/06/06 11:00
現役時代の井上亘(2009年撮影)
「スパーリングはやたら元気にやるようにはしていました。それに(ウエイトトレーニングでは)先輩たちでも上げるのを苦労するくらいの重さを上げるようにと思って、ガンガンやっていました」
先輩とのスパーリングで関節の取り合いとなっても、コツをつかむようになる。
「元々、浜口ジムのときから関節の取り合いは得意なほうでした。それにいろいろと教えてもらってもいましたから。腕ひしぎ逆十字で腕を取られたら、絶対に脱力するなとか浜口さんにもらったアドバイスなどが参考になりました」
デビューまでに1年半以上を要した
体を鍛えたら、心も強くなる。
練習生になってからの井上はその気持ちを強くしていた。つらいこと、大変なことはあっても我慢できた。逃げ出したいと思ったことも、辞めたいと思ったこともなかった。
新日本プロレスは所属レスラーも多く、デビューまでに1年半以上を要した。
井上は当時をこう振り返る。
「ラッキーだったとは思います。確か何年か後に、(入門から)6カ月以内にデビューしないとダメみたいなルールができましたから。まあ僕らは真壁さんの後に新弟子がいなかったから、残らせてもらったのかもしれませんけど」
重鎮レスラーの世話をする付け人もこなした。最初は長州力、続いて藤波辰爾を担当することになった。キビキビと働くそのさまは“できる付け人”として評判も高かった。
「長州さんは怖いイメージありますけど、怒鳴られたことは一度もなかったですよ。藤波さんは逆に、イメージのままでした。一緒にご飯を食べようって、よく誘っていただきました。どれだけ美味しそうに食べてくれるかが楽しみと仰ってましたから、いつも"藤波さん、美味しいです!”と言いながら食べてましたね(笑)。その後、佐々木(健介)さんの付け人もやらせてもらいました。でもデビューできないままだったので、このまま“プロの練習生”で終わるんじゃないかって不安になったときもありました」
ようやくそのときがやってきた。