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鎌田大地の言葉と長谷部誠の助言に共感しつつ考える… 日本とドイツ(欧州)で違う「自己主張・自己責任・専門性」とは 

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吉崎エイジーニョ

吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki

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posted2021/04/30 17:02

鎌田大地の言葉と長谷部誠の助言に共感しつつ考える… 日本とドイツ(欧州)で違う「自己主張・自己責任・専門性」とは<Number Web> photograph by JMPA

日韓戦でゴールを決めた鎌田大地だが、興味深いコメントを残している

「縦のつながり」か「横のつながり」か

 筆者が大いに注目している点は、キリスト教社会に「先輩・後輩の関係がない」という点だ。これがサッカーのピッチ上のプレーに大きな影響を及ぼしている。

 ドイツ中世史の専門家で阿部謹也先生の名著『「世間」とは何か』によると、キリスト教社会の「個人」は、

「すべてを超越した存在である神と繋がっている。それゆえ、個人に尊厳がある」

 のであり、日本のそれとは根本的な観念が違う。

 神と繋がっている感覚、というのは日本のキリスト教徒に話を聞くと「神に護られている感覚」でもあるらしい。

 この「縦のつながり」が強い。時にチームメイトとの「横のつながり」より強いようにも見えた(このあたりは筆者自身がドイツのピッチで「そうじゃないか」と思った、という体感の話だ)。

個々人は「通じ合わないもの」という前提

 日本・韓国のような「儒教文化圏」よりも相対的に「横のつながり」が弱い分、個々人は「通じ合わないもの」という前提がある。日本文化会議編『西欧の正義 日本の正義』にはこんなくだりがある。

「キリスト教は、少なくとも西ヨーロッパの場合、戦士の宗教として、封建社会に時代的要請を受け、西ヨーロッパ世界全体に力強く展開することができた。一神教すなわち一なる神を求め、信じるということはその対極にある人間全体、人間そのものに対して根底的な不信感を抱くことにほかならない」

 尊厳があるから、上下関係もない。「横のつながり」が弱いから、周囲に厳しく、意見もはっきりと言わなければならない。

 前回は、この連載の中で核となるこういった定義を示した。前出の『「世間」とは何か』『儒教とは何か』などを参考にしたものだ。

 <西洋型=神を崇拝>

 すべてを超越した存在である神と個々人が繋がっている。それゆえ、個人に尊厳がある(縦のつながり)。ゆえに「年齢による上下関係なし」。各個人が「自分の個性を発揮して組織・公益(勝利)に貢献する」チーム。

 <東アジア型=祖先崇拝>

 共同体(農村)のなかで、伝統行事の習わしを知る年配者(先輩)が尊敬された(横のつながり)。ゆえに「年齢による上下関係あり」。各選手が「自己犠牲により組織・公益(勝利)に尽くそうと考える」チーム。

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